榎本武揚へのインタビュー
プロフィール
榎本武揚(えのもと たけあき)
生没年月日: 1836年10月5日 - 1908年10月26日
業績: 江戸幕府の海軍指導者、後に外交官として活躍。箱館戦争で活躍したが敗北。
所属: 江戸幕府→明治政府
敵と味方:
敵: 明治新政府軍
味方: 幕府側の武士、旧幕府軍
評価: 海軍の技術者・戦略家として評価され、明治時代には政府の重要な外交官となる。
ポイント:
箱館戦争後、降伏し明治政府に仕える。
立場の遍歴について
インタビュアー歴丸:榎本武揚さん、あなたは幕末から明治初期にかけて、軍艦操練所で学び、幕府の軍艦奉行となり、さらには蝦夷地に「蝦夷共和国」を樹立するという波乱万丈の人生を歩んでいます。
まず、江戸幕府に忠誠を尽くしながらも、明治政府と和解し、最終的には外務大臣や逓信大臣などの要職に就いたことについてお聞きしたいのですが、この立場の変化について、どのように感じておられたのでしょうか?
榎本武揚:忠義というものは時代の流れに応じて形を変えるものだと思っています。確かに私は幕府に仕え、幕府を守るために戦った。しかし、時代が明治へと移り変わる中で、国全体のために尽くすべきだと考えるようになった。私にとって重要だったのは、個人や組織に忠誠を尽くすことではなく、日本という国そのものの未来を見据えることでした。新しい政府が国をまとめ上げる役割を担っていた以上、そこに協力することが、私の果たすべき使命だと考えたのです。
歴丸:それでも、幕府の敗北後に蝦夷共和国を建国してまで抵抗しようとしたことは、多くの人々に「諦めの悪さ」とも取られるかもしれません。なぜそこまで徹底抗戦を選んだのでしょう?
榎本武揚:私が蝦夷地に渡ったのは、単なる抵抗ではなく、次のステップを踏むための行動だったのです。江戸幕府が崩壊し、私たちは新しい時代に適応する必要がありました。しかし、蝦夷地は未開の土地であり、それを開発することで新しい国の可能性を示そうと考えた。もちろん、当時の私は、まだ幕府に忠義を尽くす気持ちが強かった。だが、あれは敗者のあがきというより、新たな秩序の中で自らの役割を見出そうとした結果です。
歴丸:結果的に敗れ、投獄されましたが、すぐに明治政府に迎えられ、その後のキャリアは順調でした。明治政府との和解、そして高官としての成功は、敵味方を超えた「適応力」とも言えるかもしれませんが、他の旧幕臣からは裏切りと見なされることもあったのでは?
榎本武揚:確かに、裏切りと感じた者もいたかもしれません。しかし、私は一貫して国の未来を見据えて行動していました。日本は外圧に晒され、内部では分裂状態でした。そんな中で、敵味方を超えて団結し、国を一つにすることが最も重要だと信じていました。自分自身の感情や立場に囚われるのではなく、常に「日本」という大きな枠組みを考えることが私の哲学でした。だからこそ、旧幕臣とも明治政府とも対話し、国を良くするために働いたのです。
歴丸:蝦夷共和国が失敗に終わり、今後の日本の発展にどのように貢献するべきかを考えた時、あなたは外交や近代化に特に力を注ぎましたね。特に、外務大臣としてロシアとの交渉など、国際的な舞台で活躍されましたが、当時の日本がいかにして世界と渡り合うべきだと考えていましたか?
榎本武揚:日本が国際社会に生き残るためには、徹底的に近代化し、国際社会のルールを理解しなければならないと思っていました。特に、ロシアとの関係は非常に重要でした。ロシアは大国であり、その脅威を正面から受け止めつつも、交渉や外交を通じて平和的に解決する道を模索しました。軍事力だけでなく、知恵と対話による解決が、国を守る最も賢明な方法です。
「薩長に負けたのではない。イギリスに負けたのだ。」の真意
歴丸:榎本さん、あなたの有名な言葉に「我々は薩長に負けたのではない。イギリスに負けたのだ」という発言がありますね。これは非常に興味深いです。薩長との戦いではなく、外国勢力、特にイギリスが幕府の運命を決定づけたと言いたかったのでしょうか?もう少し詳しく聞かせてください。
榎本武揚:その通りです。確かに、幕府は薩摩や長州と戦った。しかし、実際の脅威は彼らだけではなかったのです。最大の問題は、欧米列強、特にイギリスが薩長に強力な支援をしていたことです。薩長が単独で強力な軍事力を手に入れたわけではなく、その背後にはイギリスからの武器供給や軍事技術の提供がありました。もし幕府が同じような支援を得られていたならば、戦況は違ったものになっていたかもしれません。
歴丸:なるほど。ということは、戊辰戦争は国内の内戦というより、国際的な代理戦争だったという見方もできるんですね?
榎本武揚:そう考えることもできます。特にイギリスは、薩摩や長州に最新の武器を供給し、軍艦の建造や操艦についても助言していました。一方で、幕府はフランスからの支援を受けていましたが、フランスの支援はイギリスほど積極的ではありませんでした。このため、日本国内の争いのように見えて、実際には欧米列強がその背後で大きな影響を及ぼしていたわけです。
歴丸:では、幕府としてはそのような状況下で、どう対抗しようとしたのですか?特に、欧米列強の影響力が増している中で。
榎本武揚:幕府も当然ながら、近代化を進めようとしていました。私自身もオランダに留学して軍事技術を学び、西洋の知識を取り入れていましたし、幕府もフランスとの軍事協力を模索していました。しかし、薩長のイギリスとの関係は非常に強力で、彼らが持つ最新の武器や戦術は、我々が対抗するにはあまりにも強力でした。結果的には、私たちが国内で団結する前に、欧米の力に押されてしまったのです。
歴丸:「イギリスに負けた」という言葉は、単に戦争での敗北を指しているだけでなく、国際社会における日本の無力さをも含んでいるように感じます。それでは、明治維新以降の日本は、その国際関係にどう適応すべきだったとお考えですか?
榎本武揚:その通りです。私たちは、欧米列強の力に直面して、国際的な力関係の中でいかに弱い存在だったかを痛感しました。だからこそ、明治維新後に日本が富国強兵を進め、国力を高める道を選んだのは当然の流れだったと思います。しかし、私は常に軍事力だけでなく、外交を通じた交渉や協力の重要性を強調してきました。日本は強くなる必要がありますが、それだけではなく、国際社会と調和して共存することが重要です。力だけではなく、賢明な対話が未来を開くのです。
現代人へのメッセージ
歴丸:最後に、現代の日本、そして今を生きる人々に向けてメッセージをお願いできますか?
榎本武揚:現代の日本は、私たちが想像した以上に発展を遂げ、世界において重要な役割を果たしています。しかし、国際社会における日本の立場は依然として繊細であり、常に他国と協力し、互いに理解し合うことが求められています。今の時代においても、重要なのは「適応力」と「対話」です。過去の立場や感情に固執するのではなく、未来を見据え、柔軟に行動すること。それが、私が生きた時代でも、今でも変わらぬ真理だと思います。時代が変わっても、根本的な価値は変わらないのです。