□□□とボードゲーム(2.0)〜アブストラクトゲームにしろ□□□ゲームにしろ
前回の「□□□とボードゲーム」記事はこちら。
お茶を濁した回でした。
そしてこの記事を踏まえてとあることを書くつもりでしたが、ちょっと唐突になりそう、と不安に日和まして、不安日和をみなさまいかがおすごしでしょうか。
また、インターバルな回となります。
□□□ゲーム?
今回の記事のタイトル「アブストラクトゲームのにしろ□□□ゲームにしろ」。
珍ぬの記事で紹介するボードゲームの大部分はアブストラクトゲームだったりします。
なにせ、Adventarで「アブストラクトゲーム」のカレンダーを管理したりするほどです。
このカレンダーにも登録した記事
にも書きましたが、アブストラクトゲームは数学のカテゴリの一つ「組み合わせゲーム理論(Combinatorial game theory)」と密接に関係があります。
チェスのルールを数学を用いて必勝法(あるいは引き分け千日手状態)を解析して、それを他のゲームでも対応できるように一般化していきます。
チェスは運(確率)の要素がないゲームですが、一方で確率(任意の選択)を踏まえて数学的に解析する「ゲーム理論(Game Theory)」もあります。
非常に大雑把ですが。
突き詰めるならば、これらの理論などを用いて数学的にボードゲームの戦略戦術などを解析できます。
しかし、それとは逆に……というか数学的な解析はあまり役に立たない、関わりが薄いゲームもあります。
言葉を使ったボードゲーム――ワードゲーム。
□□□に入るのは「ワード」でございます。
ワードゲーム
BGGでカテゴリ化したジャンル「ワードゲーム」に登録されているボードゲーム数は、2024年8月18日現在4314個あります。
BGGのトップランクのタイトルは、
デクリプト(Decrypto)
コードネーム(Codename)
ジャスト・ワン(Just One)
など。
日本で制作されたボードゲームだと、
「ワードバスケット」
「はぁって言うゲーム」
「詠み人知らず」
などあります。
Boardgamegeekから、ワードゲーム(Word Game)の説明を引用しましたが、もう一つ重要な特徴があります。
ある特定の一言語を用いて遊びます。
例えば古典ワードゲームの代表だと「スクラブル(Scrabble)」
です。
といいつつも、すべてのワードゲームが特定の一言語のみでしか遊べないということもなく、ボードゲームによっては複数の言語を組み合わせて遊んだりの融通もあります。
ワードゲームボーダーなボードゲーム
ワードゲームは「スクラブル」のように、文字や言葉をコンポーネントにしたボードゲーム、とおおよそ見てもいいかも知れません。
おおよそ。
まあなかには、発言だけで済ませる(それこそ「しりとり」が大代表)ゲームもありますし。
例外といえば、文字・言葉のコンポーネントはないんだけど、ある意味ワードゲーム味が結構キテるっぽいボードゲームもあります。
「ナンジャモンジャ」
名称を名付ける、なんてのはワードゲームっぽい。
「バルバロッサ」
粘土を使っているのだが、3D象形文字としてとらえればワードゲームっぽい。
それをいえば、絵を描いて当てる連想ゲームと同系といえますね。
そのハーフ&ハーフ(絵と言葉)で遊ぶのが「テレストレーション」
ワードゲームは連想で遊ぶ傾向がありますが、一方で言葉の要素が少ないけれど連想高めボードゲームもあります。
「ファウナ」
「スティックコレクション」
取り上げた2つのボードゲームは数値を使った連想のゲームです。
言い換えれば「はかる(測る・計る・量る)」ゲームです。
そういえば。
ワードゲームで遊ぶ過程で、連想が遠いだの近いだのと感じたり言葉に出したりします。
数値っぽいものがないのになぜか「はかる」んです。
Homo Mensura
前回のシリーズ1.99で、たくさんの「Homoなんちゃら」を70個くらいあげました。
取りこぼしもたくさんありまして、Vicipedia(ラテン語版Wikipedia)にこんな項目を見つけました。
「Homo Mensura」
Mensuraは、英語だと「Measure(測定)」の語源でもあるので、Homo Mensuraは「測る人」。
ですが、このような格言で通っております。
人間は万物の尺度である。
相対主義を唱えた古代ギリシアの哲人プロタゴラスの言葉です。
プロタゴラスの相対主義は「絶対的な知識、道徳、価値の存在を否定し、人間それぞれが尺度であるから、相反する言論が成り立つ」立場です。
相対主義ならば、逆にしてもいいんじゃないかと思ったりします。
つまり、
万物は人間の尺度である。
万物を人間にあわせて考えるとは逆に、人間を万物からながめて考えてみないと、絶対主義よりかも知れません。
分けたら混ぜてみる
このシリーズで結構こすり倒しているのがデュシャン。
もう個人的に、この考え方が好みだったりします。
デュシャンの一面に、言葉に対するこだわりがあります。
似たような綴りの言葉は、あえて一緒に括ってみたりします。
まあ、言ってみたら……ダジャレですが。
この嗜好は、たとえば同じ時代に『アフリカの印象』『ロクス・ソルス』など執筆活動していたレーモン・ルセールさんに興味をもっていたそうです。
【引用】をもじればこんな感じ。
「小説」や「詩」とは「レディメイド」であり、それは「文字」の「選択」と「配置」の総体として構成される、と「執筆行為」のプロセスそのものを端的に説明していることになるのだ。
デュシャンにとっては、チェスも芸術も言葉も、おなじ頭の中での「選択」と「配置」の総体なんでしょうね。
締めとこれからのより道
さて、次回から寄り道をします。
最近みつけて、おや?と思い気になった数学詩なるものについて、いじっていこうと思います。
数学詩をおおざっぱにどんなものかというと「数学と絡めてつくった詩」です。
……なんか、考えただけで痙攣惹きつけ起こしそうな代物な気がします。
今回、前回となんやら足踏みしていたのは、むりやり数学詩を流れに引き込もうという、浅はかな努力でございました。
なんで数学詩なのかというと、チェス(数学)と芸術と言葉(文学)がごちゃまぜ合体したデュシャンの頭の中かもしれん、とふとよぎったからです。
ということで、どうなることやらなんですが、よろしくおねがいします。
では。