『伊勢物語』――エロ小説書き、本を読む#11
ひょんなことから、ガチガチのR18小説を書き始めてしまったアマチュア小説書き。でもだからこそ、本を読まなくちゃ!
というわけで、中断していた読書感想記事を再開することにしました。相変わらず無節操な行き当たりばったり読書、よろしければどうかお付き合いのほどを。
過去の読書感想 →https://zsphere.hatenablog.com/
職場の休憩室で、ちまちまちょっとずつ読み進めていました。購入時のレシート見たら2020年だった。そんなペースで。
この手の古典もね、いずれ読まなきゃと思いつつ、なかなか機会もなくて延ばし延ばしにしていたら今ごろになってしまったわけですけれども。まぁしかし、「いずれ読もう」で済ませておける年齢でもなくなってきたのでw ちょっとずつ片付けております。本書は――って、この本について前置き説明をする必要も特にないですわな。言わずと知れた歌物語でございます。
素朴な感想から言うと、意外に内容の幅というかバリエーションが多かったのが面白かった、という感じですかね。やっぱり色恋の話が多いのだろうという漠然としたイメージしかなかったわけですけど、実際読んでみると、時の権力者藤原氏をギリギリ際どい内容の歌で当てこすりをする話があったりとか、そういうのもあってけっこうスリリングでした。
解説なども読むと、核となる物語が原本として生まれてからも、後世の写本制作者などの手で随時膨らまされ付け足されて今の形になったということで、その辺本職の学者さんが分析するといろいろと傾向の違いを探せたりするらしいのですが……そういう感じで単独著者による一貫した編集が無いからこそ、一つの物語として矛盾も生まれるけど、逆に物語のブレの中に余韻や味や、魅力的な謎が生まれたりすることもあって、あえてそういうところを楽しむのもアリかなと。後世付け足された部分を不純物として削ぎ落せば良いかというとそうでもなくて、そうして段階的に成立した部分も含めて一つの物語として鑑賞する――というのも悪くないかなと思うのですよね。整合性や一貫性だけが物語の良さだとは、私は思っていないので。
個人的に面白かったのは、この『伊勢物語』で出てくる章段のいくつかが、いわば一種の二次創作として作られているというところでした。
付された注釈を見ていると、本来は古今和歌集などの歌集に、別な状況別な人物のものとして収録されている和歌が、この作中では「昔男」が全然別な状況で詠んだ歌だと改変されてというか、文脈を変えられて収録されてるケースがけっこうあるのが気になったのです。
それってつまり、既存の和歌を持ってきて、「この歌がより映えるシチュはむしろこういうのだろう」という二次創作的な発想で作品に組み入れられている側面があるということだと思ったのですよね。
ヨーロッパの古典文学は、ギリシャ神話、そして聖書という巨大なパブリックドメインがあって、それら既存の神話を題材にすることで文学としての土壌を作っていったのだと思います。ソポクレスやアイスキュロス、エウリピデスらのギリシャ悲劇はギリシャ神話の二次創作ですし、ミルトン『失楽園』も聖書の二次創作ですよね(『失楽園』読んでて、聖書のこの出来事があった時に天使ガブリエルはどこで何をしていたのか、っていう時間軸の穴埋めみたいな話が出てきたりして、これ完全に二次創作の発想法だ! と大笑いしたのを今でもわりと覚えていたりします。宇宙世紀年表の隙間を埋めるやつだ!w)。
一方の日本は、「和歌の二次創作」が文学の揺籃期を支えたカタチだったんだな、というようなことを思ったのですね。そういう読み方もアリかな、と。
創作の基本は模倣である、とはよく言いますが、それは古典文学においても同じだった側面があったように思います。
あるいは、そんな読み方をしてみることで、今日でも比較的関心を持って取り組むことも可能なんじゃないかな、とか。
何にせよ、せっかく今日まで残ってくれていた古い古い物語ですものね。どんな関心の元ででも、とりあえず読んでみると良いのじゃないかな、と思ったりしました。本書のように注釈付きで、古語読めなくても取り組めるテキストはいっぱいあるという、恵まれた時代なんですから。
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