『君たちはどう生きるか』ネタバレ長文感想
見終えて、「宮崎駿ありがとう!」って心底から思った、というのが偽らざる最初の感想でした。
少なくとも私にとっては本当に本当に最高の映画だった。素晴らしくて、しばらく呆然と映画館の片隅で余韻に浸ってましたね。
私はオタク人生を宮崎作品でスタートしたんです。中学の頃に『魔女の宅急便』にハマってね。それからずっと宮崎作品と共に歩んできたようなところがある。その私のオタク人生すべてが、今回の作品を見て呼応して、「宮崎駿ありがとう!!」って叫んでた。そんな視聴体験でした。これを幸せと呼ばないなら、いったい何を幸せと呼んで良いのかわからない。
視聴後、近くの席に座ってたお若い女性の二人連れが「よく分からなかった」って感想を述べてたんですよね。Twitter見てても、そういう感想はわりと多い気がします。
とりあえず、この物語を受容するに当たって、一つ読み解きのカギというか、作品のモードを理解するための前提があると思うんですよ。それがジュブナイルでも童話でもない、「児童文学」というジャンルに触れたことがあるかどうか、だと思う。
私は以前たまたま、天沢退二郎の『光車よ、まわれ!』を読んだことがあったんです。鮮烈な読書体験でね。ディズニー作品よりも生々しい残酷さと現実のリアルさがあって、けれど奔放なイマジネーションが弾けてて、混じりっけ無しの冒険活劇で。
知名度のある作品だとエンデの『モモ』が近いと思います。
独特のリアリティラインがあるんですよ。いわゆるファンタジーにしては現実世界のディティールが詳しいし、けど現実的なリアリティとして見るには、あまりにも不思議なファンタジー的なことが起こり過ぎる。いわゆる考察みたいな整合性も整ってなくて、世界観の細部はさっぱりわからなくて。
この辺に慣れてないと、「残酷なことが起こってるはずなのに作品中に緊張感がない」とか「世界観が明かされてなくてよく分からない」ってなると思うんだよね。ちょうど『ポニョ』の世間での感想がそんな感じだったのと同じように。
まぁ、キャロルの『不思議の国のアリス』だってそうでしょ? ハートの女王の国の制度や統治はどうなってるんだ? とか考察しないやん? エンデの『モモ』にしたって、時間どろぼうっていうのがどこから来たどういう連中なのか、詳細な設定は作中で全然明かされないやん? そういう世界観設定をかっちり作って明かそうとする昨今のエンタメと文法が違うのよ、設定よりもリアルタイムに展開する冒険が大事なのよ。
宮崎駿世代にとっては前提として備わっているそういう「児童文学」が現代の多くの視聴者には読解困難になってて、その落差みたいなところで「分からない」っていう感想が起きやすいよな、とは思います。そこは不幸な作品だよね。でも、それを力技でねじ伏せる宮崎監督のキャリアと実績と、アニメづくりの実力が、ただただすげぇ、って感じになってます。
予備知識まったく無しで見に行ったのが、体験としてやっぱりワクワクを増してくれた部分はありましたね。
タイトルがタイトルですし、その上に前作が『風立ちぬ』だったこともあって、やっぱりメッセージ性の強い、というか生きる教訓みたいな堅苦しいお説教に満ちたお話である可能性も否定できなかったわけですよね。実際、冒頭で劇中の時代が戦時中真っ只中であることが明示された時点で、「少年の立志編を時代背景を入れ込みながら語るビルドゥングスロマン」が始まったのでは? という予感はけっこうあって。
それが、お屋敷に着いて、運び込まれた荷物に群がる婆ちゃんたちのまるで百鬼夜行のような有り様で「ん?」ってなって、そこからアオサギが本気出してくる辺りで「うわぁ」ってなっていく、あの「ちげえ、これファンタジーだ!」ってなった瞬間のワクワク感はやっぱあったよね。
序盤で「うおおおおお!?」ってなったのは、アオサギに連れ去られそうになった主人公の真人、池から這い上がってきたカエルに全身たかられて大ピンチになったところで、継母のナツコさんが放った矢ですね。あれ、鏑矢という音が鳴る矢でした。源頼政が妖怪鵺を退治した時にも使われたという、由緒正しい魔除けアイテムだよ。あれで「この物語の登場人物、全員タダモノじゃないのでは?」ってなって一気に見てる私のテンション上がりましたねw
そういうマニアックなネタは随所に散りばめられてたと思います。
たとえば真人がアオサギを倒すために、アオサギ自身の羽根を拾ってきて加工して矢にしているシーンで、本が崩れちゃうんですけど、そこで一瞬映った本の書名の中に、私の見間違いでなければ『イソップ寓話集』があったはず。
実は、イソップ寓話の中に、自分の尾羽を加工した矢で自分が射られてしまう鷲の話があるんです。だから、あそこでイソップを一瞬映すことで、この後の展開をもう暗示してるんですよね、多分。
そういう小ネタに気づけると、グッと面白さが増す話なんだと思うなぁ。多分私も気づけてない要素がいっぱいある。
あと、呪術ネタも熱いよね。一時期なんかファミリー向けみたいな売り出し方されてたジブリ作品に、マニアックな伝奇呪術バトルみたいな要素が出てくるとそれだけで超興奮してしまうんですけどw なので『千と千尋の神隠し』でどう見ても式神にしか見えない紙人形呪術が出てきた時もスーパー興奮したんだけどね。今作も随所にそういうのあって楽しかったです。
宮崎監督、実は諸星大二郎作品にけっこう傾倒しているという話があるらしいんだけど、継母のナツコさんが籠ってる岩屋、あれ完全に古墳の石室だし、そこに籠もってる女性って黄泉の国神話とか、妊婦が籠ってるとなるとトヨタマビメのイメージとかもあるんかな? そういう日本神話イメージが唐突に入ってくるの、なんというかすっげぇ諸星大二郎ちっくで良かったw 紙幣が襲ってくるイマジネーションとかもね。
戦時中の日本というローカルな話だったのが、「宇宙から降ってきた隕石」みたいなのを介して急に話のスケールがぐっと広がるイマジネーションもすごい良かった。あそこで、世界観や整合性の軛から解き放たれて、想像力のままに飛び立てるのが児童文学的なファンタジーの真骨頂なんじゃよね。
日本という極東の地、世界地図の端っこに住む私たちが、それでも鬱屈せずに世界全体に思いを馳せられる、そのための重要な翼なんだよな。私もだから、ああいう話が書きたいなって思うんだよ。
ただ、もしかしたらそこは、ミスリードも含んでたのかな、っていう気もします。
主人公があわやセキセイインコに食われそうになる(あそこで包丁持ったインコに囲まれる展開、児童文学過ぎて笑っちゃうよね)、そこでヒミという少女に助けられて一時合流するんだけど。
物語の終盤で、実はそのヒミが過去の時間軸から迷い込んだ主人公の母親だったというのが明かされるわけですけどね。
でも、じゃあ純粋日本人である主人公の母親が、なんであんな西洋の家に住んで、パン食って過ごしてるんだっていう疑問も起こる。
その辺ぼんやり考えてたんですけど、しかしよく考えたら、大戦中に少年だった主人公の母親、その少女時代って大正時代とかなんですよな。だから、そもそも戦時中日本とは全然見える景色が違う。
物語の冒頭、主人公の父親の手荷物の中に砂糖があってさ、それで婆ちゃんたちが「あるところにはあるんだね」「これでおはぎが作れる」とかってはしゃいでるわけです。つまり主人公のいる時間軸では砂糖なんてめったに配給もない超貴重品なわけ。
でも主人公の母親が少女だった頃はそうでもないんじゃよね。
https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/201704130000/
夏目漱石は砂糖をまぶしたトーストが大好きだった、という逸話があるそうですが。だから、今作の「ジブリ飯」シーンであるジャムをたっぷり塗ったトースト、あれも主人公真人にとってはとんでもない別世界のご馳走なんだけど、母親のヒミにとっては普通の食事なんじゃよね。
そう、戦時中日本から見たら、たかだか1世代前の過去である大正時代がまるで別の国、外国のような別世界なんですよ。
だから主人公たちのファンタジー世界の冒険は、実はおそらく過去の時間軸への冒険ともオーバーラップされている。我々にとって、実は自分たちの住んでるこの地の過去の姿っていうのが、もうファンタジーに等しい異世界なんだよね。そういう感覚は『千と千尋』にもあったけど、今作ではよりはっきり押し出されてる気がする。
そして、自分たちの身近な、住み慣れた土地にも全然知らなかった別世界があるように、我々の身近にいる親しい人たちの中にも未知の姿がある。乳母役の婆ちゃんの若いころ、そして亡くなった実母の若いころがまるで別人のようにして現われてくる。
さらに、自分自身の内面にすら、自分にとって未知の闇があるんだよね。
『天空の城ラピュタ』の空賊船タイガーモス号のドーラの自室に若いころのドーラの写真だか絵だかが飾ってあって、それが現在のドーラとは見違えるような美少女、というのがあったりしますけど。『ハウルの動く城』とかもだけど、今は老齢の女性の中に若かった頃の闊達な姿、少女時代の姿が秘められてるというのがおそらく宮崎監督にとって一つの驚きの源泉みたいになってて、それがいろんな作品の中でリフレインしてるんだろうな、本当に一生念頭にあるテーマの一つなんだろうな、みたいなことも感じました。男の方にはそこまで無いんだよね、多分。男はどんだけ年食っても少年の頃と同じ馬鹿なんでw
主人公の父親もさ、最初の方は「家族思いではあるんだろうけど、金と権力を通してしかそれを表明できない、悲しいすれ違いを抱えた、子供世界からは遠い人」なんだろうなって思えてたのが、日本刀腰に挿して突っ込んでくる辺りで「だめだ、この人大好き……」ってなっていく感じもすごい良かったっスねw なんだかんだ、オッサンが可愛いの、良いよなぁ。
アオサギもだよね。あのジコ坊的なところから、憎めない感じになっていくの、まさに『未来少年コナン』時代から変わらない漫画映画の真骨頂って感じで良かった。
冒頭のアオサギが、純粋に動物の行動模写としてすっげぇレベル高いからこそ、それが明らかに鳥じゃない感じに変貌していく不気味さはやっぱ純粋に凄いし、リアルに精通してるからこそ非リアルの逸脱が描けるっていうのも、とんでもない実力持った人の力技を見せられてる感じで、もう圧倒されますよなぁ。
あのイマジネーションのごった煮で、何が何やら、どうなってるやらさっぱり分からん混沌世界で、見てて匙を投げそうになるんだけど、でも若キリコさんの帆掛け船を操る動きの圧倒的な説得力とリアリズムね、ああいう動きの説得力で無理やりに、ワケわかんない世界観を成立させてしまうの、まさにアニメーションの真髄なので。小説では決してできない力技で、もう見てる私はお手上げ状態でした。たまらん。
そういう話なんで、多分、頭でっかちに「理解」しようとするほど、分からなくなる作品なんだよな。そういう、世界観設定とか理詰めの理解とかにこだわらない、小さい子が見た方がすんなり楽しめる感じの作品だと思う。今回の作品見て、宮崎駿はやっぱり一番本質の部分は児童文学作家なんだなぁ、と思わされました。
大昔に一度言及したけど、宮崎監督が昔、読売新聞にエッセイ的な連載持ってたことがあって、そのタイトルが「僕は駄菓子屋さん」だったんだよね。なんかメッセージ性とかさ、そういうのを求められがちな国民的作家になっちゃったけど、宮崎監督本人は「駄菓子屋さん」になりたくて、だから本当に作りたいものを作ったら、ああいう作品になるんだと思う。世間からは三ツ星シェフの高級料理みたいなのを求められるけど、本当は、小さい子が遊びながらニコニコ笑って食べる駄菓子が作りたいって、そういう人なんだよね。きっと。
最後、主人公は新しい積木を提示されて、これで争いのない平穏な理想世界を作れって言われるんだけど、真人自身が自分の中にも悪意が厳然とあって、だからその理想世界には触れられないって峻拒するの。あれは正に、コミック版『風の谷のナウシカ』で示したテーマの再話になっていて。コミック『ナウシカ』終盤のナウシカのセリフは私の人生の座右の銘なので、宮崎監督がそこに帰ってきてくれたことに、もうただただ満足してました。
お話の舞台が戦時中日本だっていうのが、ここで効いてくるんじゃな。穏やかで平和な理想世界を拒んだら、帰る先はこれから未曽有の悲惨が待っている太平洋戦争中の日本なわけよ。でもそこへ帰っていく。高潔だからじゃなく、主人公自身もまた悪意というのをどうしようもなく抱えている等身大の人間だから。
真人の側頭部の傷はだから、ずっと、主人公も純真無垢な聖人なんかじゃなくて、ずる賢い悪意を持っているっていう、それを隠さず抱えて生きていくんだっていう刻印になってるんですな。『もののけ姫』のアシタカの腕のあざと同じスティグマだけど、真人の傷は誰のせいでもない、自分自身の中から湧いてきた悪意の証拠であることに意味があって。でも、人間だから誰しもが大なり小なり持っている悪意、それを抱えた人間が人間なりにやるべきことをやるのが重要なんだよな。それを無かったことにして、平穏な理想世界に入ることが、作品を通して拒まれてる。
そういう主人公を描いた上で、スクリーンの前の我々に「君たちはどう生きるか」って投げ返されてるんだよね。この映画を見ている我々がこれから付き合わなきゃいけない現実の時代も、戦時中日本ほどじゃないけど、悪意と困難がてんこ盛りに待ち構えてるのがほぼ間違いない世界でさ。でも、世界を混乱だらけにしている原因としての悪意は、同じものが我々の中にもある。じゃあどうする? っていう。
私は、そういう風に作品を見ました。
確かに、昨今のエンタメの文法とは全然違う作りだ。でも、話の舞台が戦時中日本であること、それでいて宇宙規模のスケールを持っていること、過去と現在の交錯、そういう要素がちゃんと綺麗に作品の中で呼応してて、エンドロールを見ながら、本当に「良いモノ見せてもらったな」と思えた。勢いまかせにこんな長文を書いてしまうくらいにはねw
そういうわけで、個人的感想でした。うーん、また見に行きたい!
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