プロットホール(脚本の穴)について
いろんな人の映画評や感想文を読んだり(音声や映像によるものも含め)するなかで多く目にするのがプロットホールの指摘です。要するに脚本の穴。
普通はこうならない、こんなことしない、理屈としておかしい、登場人物は何を考えているんだ、もっと良いやり方があるだろう、云々、、、
たしかに言われてみるとごもっともな指摘がほぼ全てなのですが、なんだか聞いてるうちに耳が疲れてくる。プロットホールの指摘って意味あるの?というのが私が昔から思っていることです。
映画は破茶滅茶です。現実と全く異なる世界を表現することが可能で、時間や空間さえ解体してしまうことができる。それが映画の魅力です。というか、その飛躍ゆえに90分とか120分で人生を見せたり、ある人物の人生を見たと思ったけどよくよく考えたらたった1日の出来事だったということが起こるわけです。
プロットホールの指摘をされる方の話を聞いてると、多くの人はそれ以前の段階(もしくは別の箇所)で対象となる映画に興味を失ってるように感じます。なんかつまんなかった。途中から話がよくわからなくなった。単純に嫌い、等。
いったんそうなると人間とは恐ろしいもので、おかしな所は無限に目につくようになるんです。肯定できてしまう場合は「脚本に穴がないから好き」では決してないはずなのに。その逆は成立してしまう。
映画の脚本はおかしいところだらけです。しかし、それを感じさせないために演出があり、画があり、芝居があり、編集があり、音がある。変は変なりに納得させようと映像の方は進みます。観客は納得したいと思って観ます。映画鑑賞はそのせめぎ合いです。
遠い遠い昔(いつなの?)遥か彼方の銀河系で(これは大ウソ)柔道着(だと子供の私は思った)を着た青年が、架空の星で二つの太陽を眺める姿に、どこで演奏しているかもわからないオーケストラが聞こえてきた時、何でこんなに感動するのでしょうか。私にも分かりません。しかし、この破茶滅茶さこそが映画の驚きだと思います。それを失くした物に見る価値などありません。それはただの現実です。
例えば、プロットホールによって作品のメッセージと矛盾した筋書きになっている場合など、その指摘は有効かもしれません。しかし、それだって作者が意図した矛盾かもしれません。倒錯したイデオロギーを表現した作品なのかもしれない。作者の意図してなかった矛盾がそこに偶然、表出してしまったのかも。しかし、それは観客である私たちには分からない。
私は、下手な映画は下手でいいと言っているわけではありません。要するに、プロットホールというのは全ての映画に存在すると言っていい。プロットホールを指摘される作品のどこに、プロットホールを指摘するに至るほどのノイズがあったのか、という事を考えるべきなのではないでしょうか。そこを深く深く掘り下げるような批判をするべきではないでしょうか。なによりもその方が面白い。面白い評論や感想を聞きたいのです。
私はnoteで批判的な文章はあまり書くつもりがないです。そこまで嫌いになれる作品もそうそう無い。つまらない映画は批判する以前に、スッと頭の中から忘れてしまうので。
ただ、プロットホールの指摘については、それは批評や感想では無いのでは?と常々、思っていたので書き留めておこうと思った次第です。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?