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ちゃんと、記す。

教育リトリートとは

教育リトリートとは、
「ワイワイダラダラしよう、教育の真面目な話の前に」
「コミュニティではなくプロジェクト」
がコンセプトの、木村彰宏さんが定期的に実施する教育関係者向けのプロジェクト。今回の舞台は小田原!




てな具合で目次をつけようかと思ったけど、かっこつけるのやめよ。ということで、あっきーさん主催の「教育リトリート」に2月22日(土)、23日(日)の2日間参加をしてきた。
舞台は小田原。初上陸だったけど、昔ながらな街並みと自然の融合はとても心地が良かった。何より、リトリートの持つ趣旨が参加しているみんなのハードルを下げ、解像度を上げてくれて、本当に、良い時間だった。みんな、ありがとう。
あっきーさんとは高3以来の5年ぶりの再会。それっきりだったし、緩やかな関係性ではあったけど、今回思いきって勇気を出してよかった。

出発進行

でもね、本音はちょっと違う。いや、だいぶ違うか。
めちゃくちゃ楽しくて、めちゃくちゃ充実してて、と同時に、めちゃくちゃしんどかった。本当に、しんどい時間だった。みんなのせいとかではなく、23年間の負債が、ずしっとのしかかってきてたから。見つけちゃった時間だったから。だからこそ、心からありがとうって思ってる。
本当はラジオに音に載せようと思っていたんだけど、ちゃんと声に出すのはまだ恐いし、何より言いたいことが伝わりきらなそうで。でも逸らしたくないから、これからそのしんどさを、本音をここに記していこうと思います。リトリートに一緒に居たみんなは、特に。読んでほしくないけれど、一番に読んでほしいな。

本当は、すぐに振り返りをしようと思っていたんだけれど、仕事もあって、みんなのラジオも聞きたくて。頭ぐるっぐるしながらも、みんなの声に励まされた3日間だったから。ようやくちゃんと、文字に起こそうと思います。

公園到着!

俺は、このリトリートでほぼ全ての人に、本音を喋っていない。というか、深い話を、自分を、見せれていない。ほとんど全員と喋ったのに、温度の高い会話をしたのは、どれくらいだっただろうか。みんなもきっと、「りたりこの人」くらいしか自分を知らない。それが心底、くやしい。

みんなはすごく、かっこよかった。ユーモアに溢れてて、それでいて、熱があって。間違いなくすべては出していないのだろうし、まだまだ秘めているものもあるのだろうけれど。でも、それでも言葉に出る想いや、それをあの場で投げる勇気。くだけた話も含めて、何をしているかよりも、みんなのその人柄が本当にかっこよかった。各班のプログラムも夜プロも、朝プロも、2030年の自分も、全部がよかった。みんなみたいになりたいなって思ったと同時に、みんなみたいに自分はいま、なれていないなってわかった。どうさらけだせばいいのかも、どう伝えればいいのかもわからず、結局腹は割れなかった。新卒ぴちぴちが売りなくせに、かわいくねえな自分って思った。てかそれは今までもずっと言われてたし、思ってた。でも、どうすればいいか結局わからず来てしまった。リトリートでもそれは同じだった。
みんなが寝た後、4時に一人でお風呂に入って「何しに来たんだっけ、」って考えて。結局答えは出なかったし、なぜかドライヤーは温風がでなかった。さむかったなあ。

諏訪野原公園から見る小田原、圧巻。

お約束の1つにあった「かっこつけない」。

なんでみんなこれができるんだろうって、ずっと考えてた。俺なんてもう無意識下で、オートシールドが起動するんだもん。自然体ってなんだ?って。本当の自分ってなんだ?って、ずっと考えてた。答えはみんなが知ってて、でも自分だけ、その答えを知らずにあの場に居た気がして。1日目の夜プロでふいに出た「本当の自分はいるか」ってトピックに、「いる」って答えたのに、間違いなくあの場に、自分は居なかった。

今思えば、居た気になりたかったんだなあって思う。
久しぶりに思い出した感覚だった。最近は忙しさに忙殺されていてスルーしていたけれど、やっぱりいた。ずっと自分は虚像だなあって。だから、リトリートがしんどかったわけではない。リトリートを通じて、23年間持ち続けているしんどさをまた見ることになったこと、ほかの人はかっこつけずにかっこよかったから、その違いに晒され続けたことがしんどかった。

レコードいじっちゃったりして

北海道の浦河町という人口1万人の町で生まれました。4つ上の兄と、2つ上の姉がいます。おおぞらは、本名です。
高校卒業までを、その町で過ごしました。近くの大学まで車で3時間ほど。1万人といえど、町にでればほとんどが知り合いで。距離が近くていいなって言われるけど、そんなことない。どこを歩いていてもみんなが見ているこわさを知らないだけ。町の公園で友達と遊んでたら、車も通ってないのに「車が通ったら危ないからやめさせろ」と高校に通報が入る。なんだこの町って、思ってた。
一人になれる場所の方が少なかったから、自然と防波堤の奥や河川敷の橋の下とかに行ってた。自然はいつも、自分と二人きりだった。だから、いまも好き。だからいまも、大きな河の近くに住んでいる。

小さな町だから、兄姉のこともみんな知ってて。よく比較されて、蔑まれた。「お兄ちゃんはああなのに、どうしてお前は」「お姉ちゃんはあんなにすごいのに、どうして」って、小学生の頃に。足も速くはなかったし、てかそもそも運動は得意ではなかったから、よくばかにされた。サッカーもしていたけれど、小5までリフティングは10回もできなかった。事実をいったらまたばかにされるから、見栄を張って50回くらいと嘘をついてた。心がずきずき痛くて、嘘をつかないと生きれない自分が嫌で、リフティングだけ、放課後に一人でずっと練習して。小学校卒業するまでに2000回できるようになったけど、その時にはもう、リフティングの回数にみんな興味はなかったから、特に意味はなかった。能力もそうだけど、ビジュアルも。小学生くらいまでは痩せてはいなかったから、「ぶさいく」だの「でめきん」だの、よく言われてた。自分は醜いんだなあと思いながら過ごす学校生活は心地いいわけがなくて、卒アルのプールでの写真で、お腹を目一杯ひっこめながら笑顔で映る自分の姿を鮮明に思い出す。

わいわい

そんなことがあったから、ずっと自分が好きじゃなかった。友達とか他人も、別に好きじゃなかった。
自己肯定感がすこぶる低くて、それは今も続いている。比較され、蔑まれてきたから他人の言葉は素直に受け取れず、ずっと他人の目を気にして生きてきた。
なのに、学校の先生とかクラスのみんなから「委員長」とか「生徒会長」とかに向いてるって棚に上げられて。でも、断ったらどう思われるかがこわくて、自分は向いていないと思っても全部引き受けた。そうしなきゃ、生きていけなかった。
小さな町だから、小・中・高とほとんどメンバーは変わらない。だから、そんな取り繕いを続けているうちに、どんどん学校や部活でも中心的な人物になっていって。「陽キャ」とか「向いてる」とか、言われるようになって。どんどん、他人から見えている自分と、自分から見えている自分に溝が深くなっていって。他の人から見えている自分だけ、きらきらしてて、あっという間に遠くに行っちゃって。そうやって、「自分」をあまり見てもらえぬまま、ここまで来てしまったもんだから、拗らせた。

人には恵まれてきたという自負はあるから、高校終盤から大学生にかけて自分を回復してこれはしたけれど、根っこはずっと変わらないまま。どれだけこすっても落ちないシミが、いまもずっとこびり付いている。誰かに指摘されるたびにこすってはみたものの、やっぱり落ち切らなくて、痛みだけが残ってて。これを書ききった頃には、シミも目立たなくなってるといいな。

わいわいその2


そんな性格の私です。自分も、他人も、学校も、故郷も、別に、好きじゃない。いい思い出なんかより、痛い思い出ばかりあるもん、そりゃね。
でも、それでも教育の畑に居るのは、なんでなんだろうって。

中学の頃の恩師が、それはまあ強烈な人で。その人がきっかけで、「教職っていいな」って、一番最初に思って。
そのあとも、虚像の自分を見て、色んな人が「教師向いてるよ」とかいうもんだから、高校生の時はなんとなく「教師になるか」「教師になるなら北海道の教育大でいいか」程度にしか考えていなかった。
ただ、サッカー部を引退した後、顧問の先生が「大学を選ぶなら、教職を志すなら、大学を卒業したあとの社会がどうなってて、その時の教育はどうなってて、どんな教育者が必要かを考えて、道を選びなさい」と言ってくれて。
当時の自分は、「どこでも学べるようになるからこそ、学校の価値がより問われる時代になる」こと。だからこそ、「学校と学校のある地域とを繋げられる、教育を通じて地域の価値を高められる教育者」が求められるって考えて。だったら、北海道の地だけ知ってちゃだめだって、教育だけ学んでいちゃだめだって思って、教師というより教育者を志して大学を選んだ。

いきついたのは日本初の「共同教育学部」が始まろうとしている地方の国立大学で。「ここしかない」って。だから、高校からはまだ誰も行ったことがなかったし、兄姉も北海道の大学に行っていたから、先生も両親も高3の10月に説得して、進路を急遽変更して大学に進学した。

海に向かうあっきー

推薦で合格したので、12月には進路が決まってた。卒業まで時間もあるなと思って、地元で高校生だけの学生団体を立ち上げたりした。道内有数の総合学科の高校で、探求学習が盛んではあったけれど、学校側のレールに乗るだけじゃなくて、高校生段階で町に対して自分たちでレールを敷いていける場所があると楽しいなと思って立ち上げた場所は、現在7期目。いまは高校生の伴走をしながら、その団体を基盤とした故郷プラットフォームを作成しようとしている。初めて自分のやりたいを形にした、大切な場所。

大学では教育心理を専攻しながら、学士までだけど小・中学国語、特支3領域の免許を取得した。一度も単位を落とさず、200単位近く取っているあたり、もう少し遊んでてもよかったかなとも思ったりはする。でも、後悔はない。大学時代は東京学芸のせんせいのたまごという場所で副代表をしたり、コーチングの会社でインターンをしたりした。コロナで暇だったのもあるけれど、何より全て、大学を選ぶ際に考えた教育への想いと、自身の実体験からくる心理への興味から、全ての道を選んでいる。

焼かれる前の肉たち

進路は、教職ではなく、就職を選んだ。地元に戻ってとも考えていたけれど、色々な人に話を聞く中で、戻ってすぐにでも貢献できるくらいの力をつけてから戻れた方がいいと思って、やめた。
「力」ってなんだと思ったときに、「人脈」と「ビジネス」の領域を拡げないことには戻れないと思って、株式でかつ教育福祉なりたりこを選んだ。何より入社半年で受けられるFPという昇給制度を使って、なるべく早く北海道に戻れるだけの力をつけたかった。
当初の予定通り、無事にFPも通過して4月からは次の段階にいけそうで、ひとまずほっとしてる。

小田原ジョー

いまもずっと、あの町で暮らしている子どもたちはいるから、なるべく早く戻って、地域と学校とを繋げられる「まきば」みたいな場所を創ろうと思ってる。
いままでは、ここに「なんで?」と聞かれたら、「町を良くしたいから」とか、「地方教育に携わりたいから」とか言ってた。なんか取り繕って、それっぽいことを並べてた。けど、それも偽り。
本当は、本音は。

2人目の自分をつくりたくないから。

自分と同じような想いを味わってほしくないから。それが実現できるのが教育という場所だから自分は教育という畑にいたいし、何より自分が直に伝えてあげたい。ちゃんと見てるよって、ちゃんといるよって。
だから東京にいるうちに、沢山の人と出逢って、なるべく多くの人を町に連れて行って、「ほら、こんなにいる」って言ってあげたい。
出自がどうでも、背景がどうでも、関係ない。選択肢は思ってるよりもたくさんあるはずだし、可能性は思ってるよりもたくさんある。等しく教育という場所はそうあってほしいなと思うから。
だから、自分はいま此処にいる。子どもも、教育も、故郷も、別に好きじゃないけど、そうする。そうしたいから、そうする。教えてもらったしね。

海!

記してみると、意外とすっと言えたなあ。いままでは何だったんだろう。
でも、これでシミが全部消えたわけじゃないだろうし、見えづらいけどこれからもまだ残ってるから、これからも向き合い続けたい。この日があるから、きっと大丈夫だと思う。そう思える。

かっこつけないで、もっと素直に。でも、ちゃんと芯を持って生きれたら。

みんなのおかげで、少しだけ、楽になれました。
みんなみたいにはまだまだなれないかもだけど、5年後に会う時にはもっと素直に、もっと自由に。もっと等身大で会えるように、生きていきます。
今日までが、2025冬のリトリートでした。

出逢ってくれてありがとう!

リトリート2025冬、完!


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