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バフチンに出会いなおす-種はすでにまかれていた-

「対話」が大事って、いつからこんなにあちこちで目にも耳にもするようになったのだろう。。。

子どもの頃は「対話」なんてことば、つかったことあったかな?

もちろん、最近になって大事になったわけではなく、もともと大事なのだけど、わざわざ言語化されるようになったのは、対話を大事にしてこなかったことで、いろんな問題が起こっているのではないか?ということに気づく人が増えているからではないかなぁなんて思ったり。

教育現場でも、新学習指導要領では「主体的・対話的な深い学び」の実現が大々的にアピールされているし、医療現場(とくに精神医療の領域)でも、オープン・ダイアローグなど「対話」がケアだけでなく、キュア(治療)の面でも活用されるようになっている模様。一般的な企業や組織開発、地域活動の分野などでも「対話」が重視されるようになっていますね。さらに、特定の領域だけでなく、一般社会でも対話をベースにした読書会や哲学対話などの場も広まりつつあります。

コロナ禍をへて、オンラインでのコミュニケーションが一般的になったことで、対話の場が一般にひらかれるのが加速したかもしれません。

多数決で決めることはは民主主義ではなくて、対話ですべての人が納得できる共通了解を見出すことが民主主義だなんてことも言われるようになってきました。

私自身、お仕事でコーチやファシリテーターをすることもありますし、対話的な読書会をやったり、ちょっとした対話会をやったり、哲学対話が好きでよく参加したりしてますし、少し前に、コーチ仲間が主催している「やさしい対話ファシリテーター養成講座」を受講して、そのコミュニティ内で勉強会に参加したり、仲間と対話のプラクティスをしたり、「対話」はとても身近に存在しています。

そんな「対話」ですが、いつからこんなにクローズアップされるようになったのかの答えを求めて、あれこれググってみました。

はっきりとしたことはわかりませんが、なんとなく「ファシリテーション」や「ワークショップ」が広まりだしたのが、2000年ぐらいで、そのあたりから「対話」も注目されるようになったという感じがしました。私が大学を卒業したのが、1998年なので、やはり、子ども時代や学生時代は身近ではなかったのだと思います。

そして、私自身が「対話」というものに触れた最初はいつだったのだろう?という問いを、頭の片隅に置いていた生活していたところ、ある日、「バフチン」という名前が目に飛び込んできて、「あーっ」と記憶がよみがえったのでした。

ケアの探究をしていると、「オープン・ダイアローグ」について取り上げた本や論考などに触れる機会がよくあり、ロシアの思想家ミハイル・バフチンの対話論が参考にされているという記述を目にしたのです。

私、大学生の時に、バフチンの「対話理論」に出会ってました。

この出来事に限らず、かつて、学びが生活の中心だったころに興味関心を持っていたことが、やっぱり変わらずずっと自分の中にあり続けていたこと、すでに種がまかれていたのだと実感することが、最近よくあります。子育ても落ち着き、仕事も自分に合ったペースでできるようになり、余白ができたからかもしれませんね。

そっかー、そこかーと合点がいきました。当時、文学部の学生で、ヨーロッパ文化圏の文学・言語文化学を専攻していたのですが、研究室にロシア文学の教授がいらっしゃって、その方がミハイル・バフチンの研究者で、バフチンの対話理論やポリフォニー論、カーニバル論についての授業を受けていたのでした。入門的な授業を受けただけでしたが、自分が今持っている対話に対するイメージや定義が、このときに形成されたものではないかという気がして、さっそく、一冊何か読んでみようと思い、目に飛び込んだのが、

『生きることとしてのダイアローグ: バフチン対話思想のエッセンス(桑野隆)』でした。

幸いむずかしい専門書を紐解かなくてもすみました。バフチンの対話原理をわかりやすく教えてくれる本として数年前に出版された本です。アマゾンの紹介文に

単なる話し合いではない、人を決めつけない、つねに未完成の関係性にひらかれた対話とは何か。「複数の対等な意識」「心に染み入る言葉」など、バフチン自身のテクストを紹介しながら、ポイントをわかりやすく解説する。

とあり、求めているものにぴったりの本。こういうときって、不思議と自然に出会いますね。かくして、この本のおかげで、25年ぶりくらいにバフチンの対話論と出会いなおすことになり、今学びを深めている対話について、改めて考える機会を得たのでした。

なお、「はじめに」で提示されていますが、基本的にはバフチンのテキストを引用しながら、分かりやすく確認・説明していくという形で、バフチンの対話論を知るための手引きになることを目的にしている本なので、わたしが本からの引用をベースにまとめてしまうと、引用の引用になってしまうため、興味を持たれた方はぜひ手に取って実際に読んでみていただきたいです。帯にあげられていた「バフチンの対話思想のポイント」だけ引用しておきます。

「バフチンの対話思想のポイント」
・「生きる」こととは、「対話する」ことだ。
・人は未完成な存在だから「キャラづけ」をしてはいけない。
・ドストエフスキーのように「内なる自分」を引き出す対話が大事だ。
・「意識」も「真理」も対話のなかから生まれる。
・他者と融けあう「感情移入」はむしろ対話を貧しくする。
・対話とはお互いを豊かに変えるための「闘い」である。

帯文より

「対話(ダイアローグ)」について学んでいると、「対話的であるとはどういうことか」についていろんな形で表現されるわけですが、バフチンの対話理論につながる部分があるということが、よくわかります。

ケアの探究や対話の学びをしながら、「生きることはケアすること」、「対話はケアになる」、そんな思いを強くしていたので、「生きる」こととは「対話する」ことだ、というのが、すっと理解でき、すべてがつながった感じがしました。


「おわりに」からの引用をご紹介して、まとめにしたいと思います。単なる話し合いではない、人を決めつけない、つねに未完成の関係性にひらかれた対話とは何かを考えるヒントがバフチンの対話論の中にあることを再確認することができ、なんだか希望を感じました。

 バフチンを読んでいると、ひととひとが「混じりあうことなく」つながっていくために、各自が身につけておくべきとおもわれる基本原理によくでくわします。バフチンのいう、「外部との関係だけでなく自分の内部においても、対話性が染みこんでいくのが成長である」といったような内からの〈開かれ〉の精神は、わたしにとって理想のようなものです。あくまでも理想であって、現実にそのようにできているわけではとうていありませんが、その実現のためには〈能動的対話〉が欠かせないという見解には同意せざるをえません。たがいの〈未完結〉を強調するバフチンの姿勢も共感できます。他者はもちろんのこと、自分をも決定づけないことです。そのためには、よき〈距離〉のとり方も欠かせません。
 このようにあげると切りがなくなってしまいそうですが、本書をしめくくるにあたり、バフチンがドストエフスキーの小説の特徴に関連してのべているつぎのような一節をあげておきます。これなども、けっして文学の枠内にかぎられた見方ではなかろうとおもいます。

世界では最終的なことはまだなにひとつ起こっておらず、世界の最後の言葉、世界についての最後の言葉は、いまだ語られてはいない。世界は開かれていて自由であり、一切はまだ前方にあり、かつまたつねに前方にあるであろう。(6.187)

 こうしたバフチン的「楽観主義」を、わたしたちも共有したいものです。わたしたちは、空間的に、時間的にも、つねに開かれているのです。この〈開かれ〉をいっそう豊かなものとするためにも、バフチン的対話主義を実践的に活かしたいものです。

(P.161-162「おわりに」より)


なお、この本を読み進めながら、改めて、医者と患者という、情報の非対称性という点でどうしても上下関係が成り立ってしまいやすい医療の分野で、バフチンの対話論が再評価され、オープン・ダイアローグという手法で実際に応用されているという事実は、社会的にも、ヒエラルキー組織からホラクラシー組織への変容をめざそうという流れがある中で、ますます対話が重視されることを象徴しているようにも思えたことを、最後に書き添えておきます。

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