森博嗣S&Mシリーズを振り返る#1 (今はもうない)
(ネタバレ注意)
新年一発目に何を書くか、あまり良い案がなかったので、おそらくもうじき読み終わるであろう森博嗣のS&Mシリーズの感想を一冊ずつ書いていこうと思う。このシリーズは全10作あり、そのうち9冊を読了した。ラスト一冊は「有限と微小のパン」であり、時系列的にも正真正銘シリーズ最終作である。読み切るのが惜しくてなかなか手がつけられていないが、それも時間の問題だろう。
さて、”S&M”とは、性癖のことではさらさらなく、主人公である「犀川創平」「西之園萌絵」の頭文字をとったものである。犀川創平は国立大の建築学科助教授、西之園萌絵は犀川の研究室に所属する(ことになる)建築学科の学生である。ともに理系と、小説としてはこの時点で異色の雰囲気があるが、極めつけとして作者の森博嗣も生粋の理系である。「理系ミステリィ」としばしば称されるこのシリーズは、緻密で整合性のあるトリック、そして理系の登場人物が織りなす論理的で理路整然とした推理が一番の魅力と思う。
代表作は「すべてがFになる」で、ドラマ化もされたことから、聞いたことがある人も多いだろう。シリーズ一作目でもあり、ふつう、「すべてがFになる」から読み始める人が多い。しかし僕は何を思ったか、その存在を知っておいて、シリーズでも異色と言われる「今はもうない」を一作目として手に取ったのである(ここに僕の強靱な逆張り精神が覗える)。ゆえ、今回は「今はもうない」の感想を、覚えている限り述べていく。
「今はもうない」の舞台は、岐阜の山奥にある人里離れた別荘。西之園萌絵が犀川創平を捕まえて車で別荘へ向かうシーンから物語は始まる。しかし、実はこの物語の真の主人公は彼らではない(冒頭で主人公と言っておきながら!)。ここが「今はもうない」が異色といわれる所以である。ベースとなる物語は十数年前に別荘で起きたとある殺人事件、そこに「その事件を萌絵が犀川に説明し、回想しながらともに現場を訪れる」という現在の時間軸が補足的に所々加わるという構成をしている。この二次元的な時間軸の構成が、物語に新たな軸をもたらし、面白さを際立たせている(ありきたりな表現)。
過去の事件の主人公は笹木というさえない中年男性(彼が一人称)、それに西之園嬢である。そしてこの事件は「笹木の手記」として、彼の視点から物語が展開していく。
ざっくりとしたあらすじはこうだ。上記の二人とその他八人(笹木の婚約者、笹木の友人のデザイナ・橋爪、その息子清太郎、モデルをしている神谷嬢、女優の姉妹朝海由季子・耶素子嬢、橋爪の執事・滝本)がいる別荘で、朝海姉妹がそれぞれ死体となって発見される。その晩はひどい台風で、別荘は最早closed・circleとなっており、朝海嬢を殺した犯人は別荘の内部に限定される。
死体が見つかった現場は三階の映写室と娯楽室で、映写室から耶素子嬢が、娯楽室から由季子嬢がそれぞれ死体で発見された。どちらの部屋も内側からしか鍵をかけられず、両者は娯楽室→映写室の方向にしか通り抜けられない構造となっている。
ここで、普通の人は「娯楽室で耶素子嬢が由季子嬢を殺し、耶素子嬢はその後映写室へと通り抜け自殺した」と考えるだろう。しかし、後に警察の調べにより、映写室で発見された耶素子嬢の死体は他殺体であることが明らかになる。ここで、この事件は「単なる姉妹間でのいざこざ」から、「閉ざされた別荘の内部で起こった密室殺人」に変貌するわけである。これだけ不可解な状況でありながら、事態はさらに謎を深めていく。映写室の外から薬物の入った注射器が発見される。さらに、耶素子嬢の変死体が発見されたとき、フィルムが回っており、ちょうど洋画のエンディングが流れていたのだ。しかし彼女はフィルムの回し方を知らない。
この不可思議な事件の傍ら、西之園嬢と笹木は、様々な推理を巡らせていく中で、徐々に近接していく。超身近な殺人事件と同時に恋をしている場合だろうか、とツッコみたくなるものの、そこも案外単調なミステリィのいいスパイスとして滑らかに描かれている(もっとも、森博嗣小説に登場する人物はどれも、頭の回転がすこぶる速く、さらに思考回路がなかなかに飛躍していたり、価値観がずれていることが多い)。物語の終盤では、笹木は彼女にプロポーズをし、彼女は、自分の下の名前を言い当てられたら、プロポースを受け入れると挑戦状を叩き付ける。笹木は(フィアンセこそいるものの)女性経験の少ない冴えない中年男性。それに対し西之園嬢は、持ち前の若さは栄華を極め、思索深い性格で技巧派。そこら辺の男性なら演技や思わせぶりな仕草でコロッと落とせそうなほど魅惑的な女性。この構造が夏目漱石の「三四郎」に似ていて、この二人の関係性もまた面白いと思うのである。
さて、ここら辺で物語のオチを述べる。山奥の別荘で起こった、この実に不可思議な事件の犯人は結局どこにもいなかった。警察の調査や、笹木、西之園嬢の必死の推理も虚しく、犯人は見つからなかったのである。
しかし、実はこの結論こそ、このミステリィの真の解だったのである!犯人がいないということは、結局は朝海姉妹のいざこざがすべての原因だったわけであるが、その説は「娯楽室→映写室の一方通行になっている」という条件で既に否定されている。従ってあり得るのは、誰かが後から意図的に死体をすり替えたという説しかない。この本の中で真相は明記されていないが、執事の滝本が彼女らの死体をすり替えた、と断定できる。なぜなら、二人の死体を発見したあとに、滝本以外の全員が一回のリビングに降り、滝本が娯楽室と映写室の後片付けをするという描写があるからだ。
さらに、あまり赤裸々に述べられていない事実として、朝海姉妹は滝本の娘であった。
しかし、どうして死体をすり替えたのか、また朝海姉妹間のいざこざの原因は何だったのか、死体発見直後はすり替えられていないから、すり替えの前後で誰か気づくのではないか等、謎は深まっていくばかりである。しかも厄介なことに、これらの直接の原因はほとんど物語の中で述べられていない。答え合わせをしない、というのがどうやらこの本のテイストらしい。死体すり替えのトリックについて、整理しながら考察していきたい。
まず、滝本によってしたいすり替えが行われていた以上、娯楽室で死んでいたのは耶素子嬢で、映写室が由季子嬢である。由季子嬢は娯楽室で耶素子嬢を殺したあと、鍵を内からかけ、映写室に行きそこで自殺した。さらに映写室の外から麻薬の注射器は見つかっているので、由季子嬢は麻薬中毒による自殺であろう(これは後の警察の鑑定によっても明らかになっている)。この状態から、ただ二つの死体を入れ替えるだけでは、衣服や容姿の違いで誰かが気づいてしまう。そこで、おそらく滝本は衣服もすり替えた。もともと耶素子嬢が着ていた衣服を由季子嬢に、由季子嬢が着ていた服を耶素子嬢に交換したと考えられる。姉妹で容姿がそっくりだったこともあり、死体のすり替えが気づかれなかった、というわけである。
続いて、どうして滝本は死体のすり替えを行ったのか。続く。