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墓のうらに廻る

 坂を上った先に彼の墓はあった。林間を抜けて少し開けたところにぽつんと。

 この手のことにありがちなことだが、彼の印象や人柄を聞いてみると、必ずと言っていいほど、「いい人」や「好青年」という言葉が返ってきた。私は墓の前に立って考えた。古びてはいるが、どっしりとしたこの墓に眠る彼は、一体どんな人間だったのかを。

 彼が今ここに眠ることになった原因は自殺である。自殺することになったその原因を探して、私は今ここにいる。大学を出て就職をした彼は、職場での評判もよく、仕事もできる人物だったと資料にあった。そんな彼がなぜ、あんなにもむごたらしいことができたのか。そして、その末になぜ自殺を遂げたのか。私はそれを知りたいと思った。

 彼がしたことを端的に述べればそれは殺人である。休日の昼下がり、同僚の家に招かれた彼は、同僚を含め、その家族を一人残らずなぶり殺しにした。資料にある事件後の現場の写真は、目を覆いたくなるようなものばかりだった。誰もが認める人の好い彼を、笑顔があんなにも似合った彼を、何がそうさせたのだろう。

 後付けで考えるなら、彼は本当は悪い人間だった。好青年の皮をかぶった悪魔であったというのが、世の中も納得する彼の人間像だ。だが本当にそうだろうか。こういう人だから、ああいう人だからというのは、自身が他人を把握しやすいように設定した幻想に過ぎないのではないだろうか。明るい人間は明るくないとらしくないといわれ、暗い人間が明るくふるまうと気持ち悪いといわれる、そういう感覚の方がよほど異常なのではないかと、この事件を契機に考えるようになった。

 表があるなら裏があるというような短絡的な話ではなく、表だろうが裏だろうが、それは間違いなくその人自身であり、単なる人格という言葉を飛び越えた広がりがあるのではないか。殺人が正当化されるなど露ほども思わないが、するように見えないのと実際にしないのは全くの別物なのではないか。そう彼の人生を文字で追いながら思う。

 墓の正面から離れて、少し立ち入って裏手にまわってみる。立派な正面で隠された裏側には、手入れされていない野放図に伸びた植物たちがうっそうと茂っていた。何か見てはいけないものを見ているような気分がして、気が咎めるような心地が少し、大方は見えない部分を見るという好奇心や見てはいけないものを見る背徳感の方が先行していた。

 日陰に入ったからか、ヒヤッとした空気が全身を包んだかと思うと、なんだか今まで考えていたことに、少しだけ確信を得た気がした。表も裏なんてありやしない。どちらも彼であってそうじゃない。

 夏の日差しを受けて逆光になった墓の後ろ姿は、まったくの他人のような顔をしていた。

チョコ棒を買うのに使わせてもらいます('ω')