深夜に流れたことばで、私たちは愛を思い出す (#読書の秋2020)
6月1日に書かれたコピー。
そこには、崩れかけていた私たちを、夫婦にしてくれたことばがあった。
◇
薄暗い部屋に、ぼんやりとテレビの光が浮かんでいた。
ソファに座る夫の後ろ頭を見ながらアラビカ種の「ゲイシャ」と名のついたコーヒー豆を挽いた。
銀色のポットから、ツウ、と一本の線を垂らす。
ジジジ、とお湯が吸い込まれ、粉の色を変える。
ジュワジュワ、と小さな音とともに膨らみ始め、甘い匂いが漂う。
全体にお湯を行き渡らせ蒸らす。
手を止めて、円錐型のコーヒーフィルターと、その先の彼を見つめる。
彼は、一向にこちらを見る気配がない。
ぽた。
ぽた。
コーヒーフィルターの先から、茶色い雫がゆっくりと、垂れる。
◇
同じ部屋に暮らしはじめて1年。
共働きで、お互い仕事は忙しい。
買うと言って買われていない日用品。
洗うと言って流し台に置いたままの、ソースがこびりついた食器。
リビングに積み重ねられた未開封の手紙。
部屋の隅に溜まったほこり。
半年後にある結婚式の準備。
大きな事件があったわけではなかった。
ただ、小さな塵が積もり積もって、大きな山となり、ダムが決壊したのだ。
どこにでもある、何の変哲もない、ただの、人と人のすれ違い。
◇
たくさんの話をしながら過ごすはずの時間。
ただ、黙ってコーヒーを飲むだけになって、数日が経った。
それでも、このコーヒーの時間をなくしたくなかった。
きっかり3分。
ふたり分のコーヒーを淹れる。
2人掛けのソファにこぶしひとつ分の隙間を作って座る。
テレビの正面に座ると、チカチカと光が刺さる。
少し離れたキッチンから斜めに見たときは朧げだったのに。
矢のように飛び込んできた光は、私の目の奥をズキズキと揺らす。
左耳に、ズ、と音が聞こえた。
湯気を見て熱そうだなあ、だけど一口飲んでみようと思って、マグカップに口をつけるとやっぱり熱くて、でも飲みたくて、お行儀が悪いと思いつつも、ちょっとだけ、吸い込むように、飲んだ。
そうでしょう?
数日前であれば、笑いながらそう伝えていた。
そして、バツが悪そうにはにかみ、「ばれた?」という彼の顔を、愛おしいなと思いながら見るはずだった。
奮発して買った豆を初めて開けた、少し熱めのコーヒー。
横に添えた、夫が好きなチョコレート。
いつもならピッタリと寄り添っているはずのソファ。
どれも、シンと静まったこの部屋を崩してはくれなかった。
少しだけ、会話の糸口になることを期待していた。
期待なんてするものじゃない。
◇
穏やかなこのひとと共に過ごしたい。
出会って初日にそう思った。
20歳で知り合って、23歳の時に付き合い始めた。
24歳になって、私から、ふたりでともに歩くビジョンを切り出した。
27歳頃、仕事が落ち着く。
その頃、あなたと結婚したい。
だから、あと3年で、考えて欲しい。
あなたは、そもそも結婚をしたいのか。
その相手は私でいいのか。
苗字はどうしたいのか。
結婚式をしたいのか。
その後、子どもを授かりたいのか。
授かりたいのなら、ひとり、ふたり、それ以上か。
もし、授かれないとわかったとき、ふたりで過ごせるか。
お互いの理想をたくさん話し合おう。
そう言うと彼は、圧倒された顔をして頷いた。
あの時の勢いは、どこに行ってしまったのだろう。
◇
熱くて口をつけることができないマグカップを手に、テレビを見る。
音楽も、バラエティの笑い声も、耳に入ってこない。
ただ、映像を流すだけ。
ずん、とした空気の中、軽やかな音楽と、ナレーションが流れる。
上空からどこかの街を映す映像。
風船を持って空を舞う、タキシード姿の男性と、ウエディングドレスの女性。
あ、やだな。
反射的に思った。
何のCMかすぐにわかった。
ああ、いま、見たくなかったなあ。
ナレーションが、軽やかな音楽が、耳に痛い。
左側の肩が、びりっとした気がした。
グレーのマグカップをぎゅっと握る。
結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです
驚いて、顔を上げると、もう白い画面におなじみの社名が浮いていた。
ことばが、勝手に耳に入ってきた。
大きな手で、心臓を掴まれた。
どきどきして、動けなくなった。
走馬灯って、今だっけ。
そう思うくらい、めまぐるしく、彼とふたりでいた記憶が頭を駆け抜ける。
最後に、あの、「3年で考えて欲しい」と伝えた時の顔が、ぽん、と浮かんだ。
横を見ると、彼と目が合う。
彼は、あの時と同じ顔をしていた。
◇
人生は選択でできている。
結婚が、人生の”ひとつの選択肢”でしかない今。
「あえて」結婚という選択をする。
ネットを開くと、街中で飲んでいると、既婚者と話をすると、いつも耳にする。
「結婚すると大変ですよ」
「イライラすることばかりだよ」
「一人の方が気楽だよ」
「同じ部屋に他人がいるのって、気を遣いますよ」
知ってる。
知ってるよ、そんなこと。
現に今だって、そうなっていますよ。
それでも、
旅行で海を見て、
「おじいさんとおばあさんになったら、またここに来たいね」
と、笑う。
一緒に住む家の間取りを見て、
「ベット入れるとぎりぎりじゃん」
と、笑う。
ちょっと良いごはんを食べながら、
「結婚10年ですね」
と遠い未来、ふたりで笑う。
その選択をしたいと思った。
ともに歩いて、たくさん一緒に笑いたいと思ってしまったのだ。
今の時代、ひとりで生きる方法はいくらでもある。
だから、結婚したい理由なんて、「好きだから」としか言いようがない。
◇
なにか言わないと。
何から言おう。
たくさん、伝えないといけないことがある。
迷っているうちに、彼は、私の気持ちを読み取ったかのように笑う。
「このコーヒー、美味しいね」
ライツ社さんの「毎日読みたい365日の広告コピー」読書感想文です。
6月1日のページで、時が止まりました。思い出してちょっと泣いて、そこからずーっとページが進みませんでした。
素敵なコピーを思い出させていただいて、ありがとうございました!