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平等な小説と刷られた物語
つくづく「小説は平等だな」と思う。多少は目をつむっているところもあるけれど、テレビや映画や、雑誌と比べると小説は私もあなたも楽しむことができるものだと感じている。
今や場所が違うからってものの差異なんてないよというのは、確かにそうなんですけども。
地方差って、気にしなければ気にならない程度のことで。ただ、欲張りになると目に付くコンプレックスがちらりちらり。
好きなアーティストのライブ!が遠いなあ。
ドラマの再放送だ、ああ関東で。
雑誌を発売日より2・3日早く読めるのは、ありがとう。
媒体が増えるほどに遠い場所のものを知り、欲しがる。
その点、小説はどこにでも同じものがある。
内容も、装丁も、価格も同じ。
全く知らない遠い北海道の学生も、東京で活躍するあの人も同じ本を読んでいる、かもしれない。
全く同じ本を通して、私たちは同じ情景を共有し、同じ場面でクスリと笑うことができる。
それに、私は小説や本の仕組みが好きだ。
一人の作家さんが考えた物語が文字になり、紙の束になり、刷られて、本屋さんへ。本を読む人一人一人が支払うお金は、本にかけられた時間や熱量に対して驚くほど少ない。それはいろいろな場所でいろいろな人が読むと信じての価格だ。
小説が小さな見た目と手に取りやすい価格をはるかに超えるエネルギーを持っているのは、紙に刷ることで物語を閉じ込め、たくさんの場所に届けられているからだ。
どうか、小説がいつまでも紙に刷られるものであってほしいと思います。