なぜ生きているのか
私は最近病んでいるのか?
「なぜ生きているのか」ということを頻繁に思うようになった。
騒音の所為で病んでいるのだろうか。
それともこの機に悟りの世界の扉を開こうとしているのだろうか。
まあそんなことはどうでもいいか…
「なぜ生きているのか」
そもそも私たちは「生きたくて生きているのか」という疑問もある。
「生きたくて生まれたわけではない」ということは確定で良いと思う。なぜなら「生まれる選択肢」は生まれる側にはないからだ。
だから私たちは「生まれてしまったから生きるしかなくなってしまった」というのが現実的な話だ。
「生まれたから生きている」これは当然の事であるのは間違いない。
つまり思想的な話になるのであれば、「生まれた」という前提は「なぜ生きているのか」という疑問にはあまり深くは関係させないほうがいい。そうでないと話が進まない。
では「なぜ生きているのか」。
状態を維持しているということは、その状態を肯定し、賛成しているということだ。つまりは「今、生きている」のであれば、「生」に賛成していることになる。
ではその逆を考えれば答えは見るつかるだろうか。
その逆は「死」である。
では、死にたくないから生きているのだろうか。ただこれも違うはずだ。
死は必ず訪れる。しかし多くの人々はその死をいずれ来るものと受け入れているはずだ。本気で不老不死になろうと研究に躍起になっている人はほぼいないはず。
ただみんなおそらく。「いずれは死ぬが、今は死にたくない」とは思っているはずである。
ここで見えてきたのは「今」というキーワードだ。
私は「なぜ生きているのか」という問題には「今」というキーワードが深く関係しているのではないだろうか。
そもそも「生きている」というのも「今」である。現在進行形だ。
ということは、「今、死にたくない」「今、生きている」ということが大きな課題のようだ。なぜそう思うのだろうか。
何かやりたいことがあるのだろうか。
何かこれからの将来に希望を抱いているのだろうか。
何か今幸せなことがあるのだろうか。
いずれにしても現状を肯定する、「幸福」「期待」「希望」などのポジティブな思いが、少なくともほんの少しでもあるからこそ「今、死にたくない」し、「今、生きている」のだろう。
そしてその希望や期待、幸福がなくなったときに「生きている」ことをやめる、つまり「死ぬ」のだろう。
私はこう結論を出す。
「なぜ生きているのか」
それは、少なからず今に「期待」や「希望」、「幸福」を抱いているからだと。
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