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「生」は素晴らしく、「死」は忌み嫌うこの世界

どの国の人間でもそうなのか。

「生」については「素晴らしい」「生きてるだけで丸儲け」と全肯定する。「死」については「死んだら終わり」「命を粗末にするな」と全否定する。

しかし私は思う。

「生」が苦しい人もいることは間違いない。
「死」によって救われる人もいるだろう。

それでも、どんなに「生」の上で苦しんでいても、「生きてるだけで丸儲け」なのだそうだ。


世の中どうしてこうも偏った思想ばかりなのか。
なぜそんなに「生」が素晴らしく、絶対正義とされるのか。
なぜ「死」はそこまで否定され忌み嫌われるのか。

そんなことを考えていたら、2つの可能性が思い浮かんだ。

それは、人間の思想。

「自分を肯定する考え」
「片方の意見しか聞けない状況」

である。


「自分を肯定する考え」とは要するに、「自分は間違っていない」「自分の置かれた状況は正しい」自分が今置かれている状況、現状を全肯定する人間の本能だ。

何をするにしても皆自分が正しいと思っている。そう思わないと何もしない。自分のやることなす事、置かれた状況、すべて肯定してしまうのが人間だ。本アカウントでもたびたび取り上げる男女の問題が一番わかりやすい。

男は男の意見が正しいと思っているし、女は女の意見が正しいと思っている。国間の問題もそうだ。自国が正しいと思っている。


皆自分の置かれた状況が正しいと思いたいものだし、そう思うのが自然であり、違和感すら覚えない宿命なのである。

それが「生死」にも反映されているのだ。

「生きている現状」を正しいと思い込んでいる。我々は生きている側の人間だから。
「死の状況」は自分たちとは正反対のもので、それを否定したくなる。


でももし、男女や国などのように相手方の意見があれば、一部「そういう意見もあるかも?」という冷静で客観的な見方が出来る人が現れるものではある。しかし、「生死」の場合それができない。

なぜなら「死」の状況に置かれている者の意見が聞こえないからである。それが「片方の意見しか聞けない状況」だ。

今この状況にいるのは全て生きている人間であり、言葉や文字で発信するのも生きている人間である。

つまり完全に一方の意見しか見えないのだ。独裁国家の偏見教育・報道と同じようなものだ。

北朝鮮の脱北者の話なんかと照らし合わせるとわかりやすい。日本や韓国の事を「極悪」や「貧困国」と教育しているようだが、実際は北朝鮮よりも裕福な国である。しかし北朝鮮内ではその情報が完全に断たれ、独裁の教育だけが横行している。

この「生」の世界もそれと同じなのではないか。

私たちは「生」の世界しか知らないし、テレビも新聞も有名人も親も、誰もかれもが「生きていることが素晴らしい」と言いふらしている。

「死」の世界や状況を知らないのに、皆「生こそが素晴らしい」と。


もしかしたら、「死」とは「生」よりも素晴らしいものかもしれない。

「死の世界」とは、苦しみも悲しみも痛みも憎しみもない、理想郷かもしれない。

それでも皆、自分が置かれた現状である「生」を、まるで思考停止状態で肯定する。


私たちはいつか絶対死ぬ。「死」とは、いつかは到達する領域なのだ。それをここまで忌み嫌い、避け、悪とするのはあまりにも愚かなことだと思う。

結局、病気で死ぬ時でも、大怪我をして死ぬ時でも、苦しむのは「生きている時間」なのだ。

本当に「死」とは悪なのか。

そこまで忌み嫌う必要はあるのか。


今一度考えてみるのも良いと思う。



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