【戦略的な不便の設計】
コミュニケーションは平たくいうと「協力」だと思っていて、教室は一つのコミュニティ。そのコミュニティを育成する上で協力して課題を解決していく経験がとっても大切だと思う。
普段の授業なんかもそうだけれど、ミッションがあってそれを協力して解決していく。
『学び合い』なんてまさにそうだと思う。
西野亮廣『夢と金』にも「不便益」という言葉が出てきいますが、コミュニケーションが生まれるところにはちょうどイイ不便がある。
学級経営でもその「ちょうどイイ不便」を意図的に散りばめる必要がある気がする。
朝の宿題は、列でカゴにまとめて出すようにしている。
天然でそれを始めたのだけれど、これがコミュニケーションのきっかけになっている。
「出した??」「だそー!!」とか自然とコミュニケーションが生まれる。列でまとめて出すので、そのチームメイトと会話が必要である。
また連絡帳は、口頭で言ったものを書いている。
初めは聴く力をつけるために、始めたのだけれどこれがちょうどよく不便。
1回で聞けない時に、近くの人と関わる必要でがある。
「漢字練習何番だっけ?」「2時間目ってんなんだっけ??」そんなふうに自然と会話が生まれる。
不便すぎてもダメだと思うけけれど、親切すぎても育たないものがある。便利すぎても生まれないものがある。
ちょうどイイ不便が必要。
子どもが困惑し、ストエレスフルになりトラブルが増えてしまうのであれば不便すぎ。
ちょっと手をかしあえば解決できるレベルの不便が必要。
自教室清掃も役割分担をしない。
体育の準備も会場図だけを示す。
すると、やっぱり「やりとり」が生まれる。
『学び合い』も同じ。
便利すぎるものを、親切すぎるものをイイと考えがちだけれど、それだと得られないことがある。
教師が0から全て教える。それをノートに書けばイイ。
とても便利だけれど自然なコミュニケーショなっったんは生まれにくい。
しかし、教師が教えず、教えすぎず、内容の理解を程よく子どもたちに任せた時、協働ミッションに変わる。
「協力」が必要になってくる。
『学び合い』のクラスがなんかイイ感じのチームになるのは「ちょうどイイ不便」があるからだなっと思った☺️