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初カノの記憶
遠い昔の記憶を、ここに書き残しておこうと思う。
※ この記事は少しオトナの内容も含みます。ご了承ください。
人付き合いが下手な私に初めて彼女ができたのは、大学1年のときだった。
地元を離れて東京の大学での一人暮らしを始めた私は、部活やサークルには入らず、バイトもなかなか見つけられず、授業に出るだけの毎日だった。
ヒマを持て余して、大学図書館で1人で黙々と本を読み漁っていた。
◆ 図書館のピエタ
毎朝、私は開館時刻とともに図書館に入って、落ち着く端っこの自習席を陣取っていたのだけど、その向かい側の席にはいつも同じ女子学生がやはり開館時刻と同時に陣取っていた。
地味な黒縁眼鏡の子で、いつも無言で美術書を眺めていた。
化粧もしないで、髪は寝ぐせをむりやりに抑えつけたかのように無造作に束ねている。
真面目そうで色気はないのに、なぜか神々しいほど美しいと思った。
うつむき加減に読書する姿は、まるでミケランジェロの『ピエタ』のようだった。
そう、あの聖母マリアと同じ眼差しだった。
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向かい合って座っているので、本から顔を上げると頻繁にその子と目が合ってしまう。
すると、その子は目が合うたびに黒縁眼鏡の奥からキッと私を睨んでくるので、慌てて私は視線をずらすのであった。
そんな日々が何か月も続いていた。
◆ 急展開
ところが、ある日突然にその子から声をかけられた。
「カノジョとか、います?」
なぜか少し怒っているみたいな真顔でそう質問された。
「・・・いえ、今はいないですけど…」
私は少し引き気味にそう答えた。
「今は」などという言葉を加えてしまったのは、私の見栄である。
「今までずっといないです」が正解だったのだろう。
「じゃあ、わたしとつき合います?」
その子からのあまりにも直球の問いかけに、私は反射的に「え、はい…」と答えてしまった。
あんなに私のことを睨みつけていたのに、彼女は私について悪い印象を持っているわけではなかったらしい。
やっぱり私には人の心が読めない。
その子は ヒロコという名前だった。
私よりも2つ年上で、学部や専攻も私とは全然違ったけれど、音楽や美術や本や映画などの趣味はわりと合っていた。
女性との距離の取り方を知らなかった私は、恋愛の手順や作法も心得ておらず、二回目のデートで唐突にラブホに入ろうとした。
私がヒロコの腕をとってラブホの入口に入ろうとすると、ヒロコは無言でぐっと力強く私を引き留めた。
「あ、いや、ごめん…」
私は自分の強引さを恥じてヒロコに謝った。
「ダメだよ、ここは建物も古いし、高いじゃん。
ほら、看板の料金、見てみなよ。
あっちのほうが安くてきれいだよ…」
ヒロコはそう言うと、その二軒隣りのラブホを指し示した。
まるで土地勘があるみたいな決め方だった。
初めてラブホに入った私は、部屋に入るといきなりヒロコにキスをしてカラダを求め始めた。
雰囲気の欠片もない展開にヒロコは苦笑して戸惑いながらも、そのまま私を受け入れてくれた。
そればかりか、女性の身体についても、愛撫や営みの方法についても、ほとんど何も知識がなかった私に文字どおり手取り足取り教えながら導いてくれたのだった。
それからというもの、ヒロコと会うたびに私はまるで発情したサルみたいに何度も繰り返しカラダを求めては腰を振り続けた。
「ねえ、わたし以外とも誰かとエッチしてるでしょ?」
あるとき、ヒロコがそんなことを私に尋ねてきた。
ヒロコ以外の誰かと私がエッチなどしているわけがない。
私が好きなのは、ヒロコだけだ。
ムキになって私がそう答えると、ヒロコは「フッ…」と小さく笑って、そんな質問をした理由を教えてくれた。
ヒロコが言うには、私は「上手すぎるくらいに上手」なのだそうだ。
もっともそれはヒロコが教えてくれたからなのだけど、それにしても「あまりにも上達が早すぎる」との指摘だった。
そんなこと言われたって、私は本当に他の女性とはやったことがなかったし、風俗とかにも行ったことがない。
ヒロコは「一番気持ちいいよ!」と私のことを褒め称えた。
そんなヒロコの言葉に私は有頂天になったのだけど、それは裏を返せば、ヒロコが他の男達と比較しているから分かることだ…というところまでは、そのときには思い巡らすことができなかった。
◆ 汚染と別れ
ある日、ひょんなことからヒロコが他の男子学生と浮気をしていた事実を知ってしまった。
そのときの私のショックといったら、言葉では言い表すことができないほど大きかった。
ヒロコだけは天変地異があっても絶対に私を裏切ることはないだろうと信じていたのに、その確信が音を立てて崩れたのだ。
しかも、その浮気相手は、私がよく知っているコバウシという体育会系の学生だった。
一重まぶたのキツネ目で、顔は野球のホームベースみたいにエラが張ったニキビ面の脂ぎった巨漢で、お世辞にも爽やかとは言えないタイプのヤツだ。
念のため、ヒロコを問い詰めてみた。
嘘であってほしかった。
「コバウシくん? うん、したことあるよ、何度か…」
ところが、ヒロコは悪びれることなくあっさり浮気を認めた。
それどころか、そこから数珠つなぎに他の男達との浮気についても次から次に自分から正直に白状してきた。
ヒロコは、私の勝手な推測とは違って経験豊富だったわけである。
私は心底から絶望した。
「ヒロコは俺のことが好きなわけじゃなかったのか…」
私がそう呟くと、ヒロコは首を小さく横に振った。
「好きだよ、エッチもあんたが一番だって言ってるじゃん…」
ヒロコが、あっけらかんとそう言った。
このときほど「一番」という順位が虚しく胸に響いたことはない。
しかし、そもそもの問題はそこではない。
これは私にとっては倫理上の問題ではないのだ。
細菌学上の問題だと思った。
ヒロコの体内には、キスや行為を通して他の男達の体内細菌がもう無数に入り込んでいるというわけだろう。
そんな男達の細菌に汚染されているヒロコの体を、もう私は生理的に受け付けることができない。
例えて言うならば、ヒロコはもはや汚物の上に落ちた料理と一緒だ。
その食べ物が汚物の上に落ちたことを知ってしまった以上、もうその食べ物を口に入れることができないのと同様に、私にはもうヒロコを愛することができないと確信した。
こんな説明をする私に、ヒロコは怒りと軽蔑の念を露わにした眼差しで言い返してきた。
「体内細菌に汚染された…?
あんたにだって体内細菌はあるでしょ。
あんたちょっと頭がおかしいんじゃないの?」
冷静になって考えれば、ヒロコの主張が正しい。
体内細菌は誰にでもあるもので、汚染されているのであれば私自身も汚染されていることになる。
恋人や結婚相手に嘘をついて不貞を働く人間が多いかもしれないこの世の中で、あえて嘘をつかずに正直に生きているヒロコのほうが本当は誠実なのかもしれない。
だけど、もし私の感覚が狂っているとしても、その感覚は私の本能にも結びついているのだろうから、変えることはできないと思う。
だから、私はヒロコと別れることにした。
人間として最低なのは、私のほうだったとは思っている。
当然ながら友達に戻ることもできず、完全なる絶縁となった。
ヒロコが今どこでどうしているのかは知る由もないが、幸せに生きていることを心から願っている。
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