限りなく窓に近いスクリーン ー 映画『アダマン号に乗って』について

窓の外をぼんやりと眺める。そこには意図のない、「あるがまま」の風景がある。
スクリーンに映る映像、即ち映画はどうだろう?人がカメラで撮影し、編集する以上、何かしらの意図があるだろう。恐らく意図から逃れることはできない。それは『アダマン号に乗って』も同じだ。
しかしこの映画は、まるで窓の外を眺めているように感じた。意図がほとんど感じられず、そのスクリーンは、限りなく窓に近かったように思える。
映画は「観る」ものであり、「眺める」とは奇妙であるかもしれない。いや、僕も実際には映画を観ていた。しかし、思い返して言葉にするのなら、「観る」よりも「眺める」の方がしっくりくる。

この映画は<アダマン>を舞台にしたドキュメンタリー映画だ。
<アダマン>とは、パリのセーヌ川に浮かぶ木造建築の船で、精神疾患をもつ人々が集う、デイケアセンターだ。
僕はこの映画について、窓の外を眺めているようだと言った。ドキュメンタリー映画、それも精神疾患をもつ人々が集うデイケアセンターが舞台の映画で、これはどういうことだろう?
僕の偏見だが、こういったドキュメンタリー映画は、製作者の意図や主観、価値観が出てしまうのが常ではないだろうか?悪ければ価値観の押し付けになっているということも……
しかし、この映画はそういったものが感じられない。BGMもほぼないに等しく、ナレーションもない。ただ、「あるがまま」を映すことに徹しているように思える。

この映画が「あるがまま」を映せたのは、もちろん映画の製作技術もあるだろう。しかし、それは<アダマン>という場所が、「あるがまま」を肯定していたからでもあるはずだ。もしかしたら、監督はこの<アダマン>にある、「あるがまま」をいかにスクリーンに映すか?ということを意図していたのかもしれない。それは意図によって意図を否定する意図でもあるだろう。では、<アダマン>にはなぜ「あるがまま」があるのだろうか?
一般的に精神疾患とは、治療するべき病である。もちろん<アダマン>にもそのような目的はあるだろう。しかし、治療と「あるがまま」というのは矛盾することではないか?治療とは、病である現状を否定し、健康や正常な状態へと向かうものだと考えられる。そして、健康や正常な状態とは、単数として考えられていないだろうか?しかし、そうではなく、健康や正常な状態は人それぞれで違い、本当は複数なのではないかと思う。
そうであれば、治療の考え方も変わってくる。治療とは、唯一の健康や正常の状態にするのではなく、それぞれの健康や正常に向かっていく。いや、健康や正常というよりも、「うまくやっていける」(ジャック・ラカンの精神分析のように!)と言った方がいいのかもしれない。
また、健康や正常が単数であるならば、治療は健康や正常という単数に人を押し込めてしまうことになり、それは恐ろしいことではないだろうか。
<アダマン>に集う人々には、確かに病という不自由はある。薬がなければ、自由を失ってしまう人もいる。しかし、一般的に健常者と呼ばれている人達にはない、自由があるのではないかとも考えられる。

<アダマン>にある、「あるがまま」というのは、コミュケーションについても言える。<アダマン>の中では、それぞれがそれぞれのやり方で、空間を共有しているように思える。ただ同じ時間、同じ空間を共有する。無理に意思疎通をしようとしたりしない。分かり合えなくてもいい。思い思いにたたずむ。これは、一般的に健常者とされている人達には、あまり見られないコミニケーションではないかと思う。
つまり、ここには一般的に健常者とされている人達とは、別のコミュニケーションがある。一般的に健常者とされている人達にとって、コミニュケーションとは、「意思疎通が取れなければいけない」というふうに認識されていないだろうか?そして、そのことに囚われていないだろうか?もしそうだとしたら、<アダマン>に集う人々のコミニュケーションには、失われたコミュニケーションの豊かさがあるのではないだろうか?

失われた豊かさは会話にもある。会話は何か目的やオチがなければならないと心のどこかで思っていたり、また、そう感じてしまうことはないだろうか?おばあさんがインタビュアーに向かって話しているシーンがある。おばさんは「機材はどうやって運んだのか?」と聞いている。しかし、本当はそんなことはどうでもいいのかもしれない。おばあさんは、会話をただ楽しんでいるように思える。

話が少し戻るが、先ほど述べたそれぞれのやり方でということに関して、パワーストーンのようなものを繋げたネックレスを付けている人について、思ったことがある。その人曰く、そのネックレスは悪い波動を封じ込めるらしい。これはスラングでいうスピっていると蔑称されることなのか(もちろんこれが悪質な霊媒商法の加害被害に関わることであれば問題があるが)?僕には、この人なりの「うまくやっていく」方法だと思える。
それに一般の人も、ラッキーアイテムや勝負服などを身につけたりする。それと変わらないだろう。むしろこの人の方法は、独創性があり、個別具体性ががあるように思える。

この映画で意図が一つあるとしたら、やはり「あるがまま」を映すということだと思うが、観客にも「あるがまま」を観てもらいたいという意図があるだろう。インタビュー中に熱が入り、長いこと話す人もいる。そうすると、こちらもつい話にのめり込み、意味などを考えたりしてしまう。もちろん、そのことは他者を理解しようとすることにおいて、いいことだろう。一方で、それは自分の主観や解釈が加わるということでもある。
こういったついのめり込んで聞いてしまいそうなインタビューの途中では、<アダマン>周辺の景色の映像が差し込まれる。そうすると、何かはっとした気持ちになる。これは「あるがまま」を取り戻し、「観る」から「眺める」に戻る為の仕掛けなのでは?と思わされる。

「観る」と「眺める」は位置が異なるように思う。「観る」は私にあり、「眺める」は私と世界の間にある。
まずは、この映画をぼんやりと眺めてみよう。「あるがまま」を味わってみよう。「あるがまま」の世界へほんの少しでも行けるかもしれない。そのとき、私たちなりの生き方が、ふと見えるかもしれない。



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