見出し画像

何が起きていたのか?―1974~75(前編)

何が起きていたのか?―1974~75(前編) 京成サブ

  運動史の回顧録でほとんど見かけないのが1970年代の半ば頃。実は74―75年あたりというのが、いろんな意味でエポックメーキングな年だったと思う。今回は学生時代(20~22歳)の記憶と体験を頼りに、まず1974年にスポットを当ててみる。

この年は、新年早々から石油ショックの影響で、東京のネオンが暗くなり、深夜のテレビ番組もなくなった。世の中は、オカルトブームで『エクソシスト』が大ヒット、『ノストラダムスの大予言』やユリ・ゲラーのスプーン曲げ、『日本沈没』と終末論、ブルース・リーと空手ブーム、小野田少尉がルバング島から生還、アイドル全盛、実録ヤクザ映画、日活ロマンポルノの時代だった。
 そんななかで、運動界隈は「シラケの季節」とか「内ゲバ時代」とか言われて全体的には退潮。ニュースとしては「三菱重工爆破テロ」がクローズアップされたが、実は、この時期の運動をちゃんと検証した文献も回顧録(大体、運動回顧録のほとんどが1968~72年にかけてが多い)もない。しかし大学はまだまだ燻り続け、狭山差別裁判糾弾闘争が、10.31高裁判決に向けて盛り上がり、三里塚闘争も岩山鉄塔をめぐる闘いが実質スタート(鉄塔撤去は1977年5月)、反公害住民運動(宇井純主催の東大の自主講座「公害原論」も毎回満員に。「大学解体論」という連続講座にも行ったっけ)、消費者運動、リブ、障害者運動、寄せ場(山谷、寿、釜ヶ崎、笹島など)の闘い、さらには狂乱物価と不況(スタグフレーション)のなかで、労働争議も空前の件数に上り(新聞記事にあったけど、2023年の争議件数の400倍以上だったという)、会社に雇われた暴力ガードマンの襲撃(全金本山、光文社など、何年にもわたる長期争議に)も多発、春闘では交通ゼネストで、国鉄・私鉄は3日間も止まるなど、結構激動の年だったのである。

大学における攻防

 1月28日、二つの大学に機動隊が導入され逮捕者も出た。
 学費値上げ撤回を求める明治学院大学では、ロックアウトに抗議して理事長と大衆団交を行おうとした数百人の学生に対して、大学側が機動隊を導入、3人逮捕。
 暴力ガードマン追放の闘いが続く東洋大学では約1千人の学生がロックアウトを打ち破り、機動隊導入で40人近くが逮捕され、負傷者も多数出た(「白山通り解放区闘争」。以降も暴力ガードマンによる恐怖支配は続く)。
 一方、法政大学では新しい学生会館の自主管理を巡る攻防が前年から続き(逮捕者多数)、この春に全面的に学生自主管理が認められた学館が完成。完成記念のイベントに行ってみたら、ゴダールの『東風』の上映と、前衛写真家の中平卓馬の講演だった。中平は、シニカルに状況を批評。既得権がやがて形骸化し崩壊する未来を予見して警鐘を鳴らしたのだが、このとき、勝利に湧く学生たちには通じなかったようだ(やがて今世紀に入って学館は解体され、法政はタテカン一つ立てられず、ビラ1枚まけない大学と化した)。
 さらに京大、同志社大などはバリストがまだまだ日常風景であり、明大和泉でも学費闘争で50人以上が逮捕されたりと、シラケの季節という割には、まだまだ騒がしかったのである。
 

べ平連が中心に呼びかけた「暮らしを奪いかえせ!3・30大集会」

 3月30日、べ平連が中心に呼びかけた「暮らしを奪いかえせ!3・30大集会」が代々木公園で開催されたので友人と行ってみる。ベトナム戦争は73年から米軍の撤退が始まり、もう勝利は確定していたので、この頃は、反安保・反戦運動は停滞ぎみで、ベ平連も、公害や三里塚、さらに生活の問題にシフトし、その取り組みとして3.30が呼び掛けられたのだ。当日は5000人くらい集まり、大学べ平連、日大オレンジフラクなどノンセクトの隊列に入って、ジグザグデモも展開。なぜが革マル派も100人ほどが参加していた。「3.30運動」はその後も経団連デモとか、いろんな行動があったが、いつしか消滅してしまった。
 

狭山闘争の高揚

 狭山闘争は、高裁判決に向けて全国から波状闘争で、8月から9月にかけては、日比谷公園で10回くらいデモ。なかでも9.26の「10万人集会」は、日比谷公園のあちこちを埋め尽くす凄い結集で圧巻だった。昼休みの時間には、解放派の全国動員部隊が、霞門から竹竿を構えて突撃し、投石・投ビンで激しい乱戦にもなった。(解放派は、行動隊が高裁の裁判長室にも乱入し、窓から垂れ幕を垂らした。今では信じられないことだが…)。多くの大学では部落解放研が呼びかける実行委がつくられ、ハチマキ・ゼッケン・マスク(この頃からマスクをするようになった)が定番となった。10月31日当日も日比谷公園は人で埋め尽くされ、不当判決(無期懲役)の知らせの瞬間、公園全体を揺るがす怒りの声が上がった。明治公園までスクラムデモ。狭山闘争も(石川さんが仮出獄で出たのが1994年)それから50年間続く(今も、5.23と10.31は日比谷野音で集会・デモ)。

1974年9月26日「10万人集会」日比谷野音

マル青同 - ブンド烽火派との内ゲバ、そして日本学生戦線

 そんな狭山闘争のなかで、会場で何度も目をひいたのが、あのマル青同である。この夏頃から、大学や街中の電信柱に「マル青同に結集せよ!」のステッカーが目立つようになり、いくつかの大学では、竹竿部隊で登場し、他党派やノンセクトの顰蹙をかっていた。中大に通っていた友人は「マル青同の部隊がキャンパスに登場すると、建物の中から『帰れ!帰れ!』と一斉にビンを投げるんだ。ビラの受け取りを拒否すると一般学生でも殴りかかったり、変な軍隊行進したりでさ、ほとんど右翼だって」とあきれ顔で言っていた。狭山闘争の現場にも、最大時250人くらいの動員で、竹竿部隊以外は全員が傘を持参していたのが異様だった。実は、ブンド烽火派と内ゲバ状態にあって、9月のどこかで地下鉄霞が関構内で大乱闘になり、双方で50人っくらいが逮捕されたこともあったのだ(これって運動史には出てこないね)。
 そんなマル青同は秋になると「フォード来日実力阻止」のステッカーを貼りまくり、米ソそれぞれの大使館に少数の行動隊が火炎瓶を投げながら突入を図った。この頃、マル青同とスローガンや作風が似ている「日本学生戦線」(最初は「全国学生戦線」だったか)も結成されたが、東京の黒ヘルノンセクト界隈は「あれはどう見てもセクトだよな」「マル青同の別動隊じゃねえのか」なんて言いながら冷ややかに見ていたのだが、それなりの勢力になってゆく。ちなみに後半でも取り上げる75年の天皇訪米阻止闘争では、べ平連呼びかけの集会に、百数十人が赤ヘル・旗竿・ゼッケンで登場、デカい音量マイクの情宣カーを先頭に、党派以上に党派っぽく決めながら、それでも「ノンセクト」を名乗っていた…。
 

マル青同

フォード来日阻止闘争

 そのフォード来日阻止闘争だが、60年安保闘争では、当時のアイゼンハワー大統領の訪日を中止に追い込み、以降、ケネディ、ジョンソン、ニクソンも日本には来れなかった。そこにフォードときて、新左翼界隈はこの秋一番の闘争課題になる。来日前日と当日の2日連続闘争にフォード共闘なる一時的共闘が組まれる。全労活(全国労働組合活動者会議)を軸に第4インター、解放派、戦旗派(荒派)、労活評、プロ青同、前衛派、主体と変革+ノンセクト・べ平連系といったところか。前日(行ってない)は宮下公園に約3千、当日は仲蒲田公園に約2千が集まった。集会の途中で、インターの全国部隊500人くらい(旗竿100)が威勢よく登場。発言でも「機動隊を粉砕して羽田空港に突入するぞ!」とテンションが高く、解放派は盛んに野次っていた。デモは始まると、大通りに出たところで、インター、解放、戦旗の旗竿部隊がダンゴになって突撃。「全員検挙」指令で200人近く(旗竿部隊はほぼ全員)が検挙された。前方で何が起きたのかも分からず、衝突現場では足の踏み場もないほど竹竿やヘルメットやタオルなどが散乱していた。こちとらは個人参加だったので、後方で「労学舎」に入れてもらったが、機動隊の興奮ぶりが激しく、何度もどつきまわされたが、どうにか解散地まで無事に辿り着いた。第4インターは、その1か月前の三里塚全国集会でも600人以上を動員し、70年闘争以来、当時よりも数が増えた唯一の党派として一躍注目されることになる。

三里塚闘争 - 戸村参議院選挙

 三里塚関連で1974年の最大のハイライトといえば、7月に行われた参議院選挙で、反対同盟委員長の戸村一作が無所属で全国区に立候補したことだ。結果は23万余で当選ラインに届かなかったが、71年代執行と青年行動隊への事後弾圧が続く厳しい状況下で、三里塚を全国への意義は大きかったと思う(選挙に反対の党派もいたようだが)。選挙運動の中心を担った連帯する会は、その後の岩山鉄塔~開港阻止決戦の過程で、大衆戦線の拡大にもなった。記憶では、投票日前夜の新宿駅東口に行くと、むしろ旗が林立し、戸村氏と小中陽太郎、小沢遼子(当時は浦和市議)ら主にべ平連文化人が応援演説をしていた。この参院選では、作家の野坂昭如も東京地方区で立候補して(この時は落選)注目された。野坂とも2回くらい遭遇した。「花の中年トリオ」とかいって小沢昭一、永六輔と3人で、学園祭なんかに呼ばれていたが、当時は「昭和ヒトケタ組」といっても、まだ40代で今から考えればみんな若かったのだ。この年には、小川プロの「三里塚」シリーズの最高傑作といえる『三里塚・辺田部落』を満員の中野公会堂で観た。

1974年7月7日の第10回参議院議員通常選挙では23万407票を集めながらも落選した

アングラ映画-上映会の季節

 映画関連でもう一つ、5~6月頃、アテネフランセでドキュメンタリーやアングラ映画の話題作を何十本も連日上映するフェスティバルがあって毎日のように通った。そこで初めて観ることができたのが若松プロ制作の『赤軍-P.F.L.P 世界战争宣言』であった。映画が終わったあとトークタイムになり、監督を務めた足立正生(当時まだ30代!)が解説した。確か「一人一人が哲学を持つことが大切だ」といったニュアンスだったと思う。それから間もなく足立監督はパレスチナに旅立った(次に会ったのが27年後の2001年なのだった)。このフェスでは、今ではユーチューブでも観られる『日大闘争』『続・日大闘争』も初めて観た。映画に登場する学生たちだってこの頃はまだ20代半ば。映像を観ながら「異議なし!」「よーし!」「ナンセンス!」と、まるで総決起集会のような雰囲気。シラケの時代とはいえ余熱はまだまだ熱かったのである。この頃は『ぴあ』『シティロード』で、こうした自主上映イベントなどをキャッチすることができたが、大学の立て看(大学内での自主上映会も多かった)や、電柱のステッカー、集会の場で手に入れるチラシなども貴重な情報源だったのだ。
 文芸坐の週末オールナイトも、この年だけで10回以上は行ったと思う。それまでは日活アクションが中心だったのが、7~8月は珍しく新東宝の掘り起こしもあり、名作といわれる中川信夫監督の『東海道四谷怪談』や『地獄』も、「異議なし!」「よーし!」のかけ声が飛んだものだが、ある意味、それもこの時代の閉塞感の表れだったのかも知れない。
(後編に続く)

日大闘争の記録「日大闘争」

日大闘争の記録「続・日大闘争」

赤軍-P.F.L.P 世界战争宣言

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?