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Malbono ne ekzistas(悪は存在しない)

濱口竜介監督の新作映画「悪は存在しない」を観たので、今回はその感想を書いていこうと思います。

この映画、とにかく映像と音楽が美しいので、それだけでも観る価値はあります。それはともかく、なんてラストなんだろう。そして、なんというタイトルだろう。多分、みんなそんな風に、観た後はぼんやりと考え込んでしまうことと思います。

これを書いている自分は、この映像に出てくる富士山の見える道路になぜか親近感をおぼえました。エンドクレジット、山梨県北杜市小淵沢がちょっと出て、ハッとするような気分になりました。というのも、そこには八ヶ岳エスペラント館という施設があって、自分もちょくちょく行っていたりするからです。

感想を書くにあたって、題名をエスペラントに訳してみました。Malbono ne ekzistas. マルボーノ ネ エクジスタス、と読みます。悪(Evil)を訳すにあたって、「善」を意味するBonoに「反対」を意味する接頭辞malを付けて、malbonoとしました。これは、エスペラントにおいて、悪(だけ)を意味する単語が無くて※、基本的にmalを付けた「善」によってだけ表されることによります。ちょっと面白いことに、エスペラントには「悪は存在しない」のです。
(※もしかして探したらあるかもしれないですが、常用ではないでしょうから許してください、、)

反省しない言葉?

もちろん、これは言葉遊びにすぎません。でも、如何せん、このタイトルが面白いのです。自分は最近、文学フリマ東京38に新しい本を出品しました。それは『半人間・半意識論:パーソナルな議論のために』という題名で、ちょうどこの面白さに類似した概念を提唱しています。すなわち、反省をしない人間(の部分):「半人間」です。
半人間は人間以下の存在ではなく、私達が普段生きていて、多かれ少なかれ持っている「反省のない」部分のことです。そのようなものを想定することで、何が良いか。それは、私達がどうしても哲学とか人間学に思いを馳せなければならないときに、断言のようにして出てくるあれこれを、うまく消化することができる、ということです。こちらの記事にも書きましたが、例えば「そんなことも反省できないなんて、、!」という議論を非人間についての話ではなく、あくまで半人間のものとする、というように読み替えることができるでしょう。
また、反省をしない意識(についての意識)を半意識と呼んでいます。

悪は存在しない。これは、映画に登場する彼、巧にとっての半意識だったのでしょうか。すなわち、反省されることもなく、断言された思念。そこには残響が残らないようです。映画の途中何度か、音楽がぶつ切りで中断されるように。

映画を観た私達は、このタイトルをなんとか理解しようとします。ある人は、善と悪の間にあるグラデーションのことを言っている、と解します。つまり、完全な悪などなく、どんな人も完全に善などではない、と。これに自然との関わりを結びつけることによって、どんな物事も、それ自体は善・悪ではなくて、ただ起こるようにして起こってしまう(水が流れるように)、という解釈につなげる人もいるようです。
これらの考え方ももちろん良く分かりますし、自分の理解もそれほど遠いわけではありません。ただ、映画を観ている気持ちは、そんなに簡単に割り切れるものではなく、それこそ不透明に(半透明に)透かされていたような気がします。

以下ネタバレです。

何故技をかけた?

最後、巧が高橋に技をかけて首を締めたとき、巧は何をしていたのでしょうか?彼の中に、何が意識されていたのでしょうか。それがどんなものであれ、都会的な悪意でないことだけは、観客誰もが同意するのではないでしょうか。だから、当然のことながら、そこに「悪」は存在しないでしょう。
巧がどんなことを意識していたか、その具体的内容は分からないにしても、彼がハナ(彼の娘)を助けに行こうとしていたことだけは確かな気がします。つまり、高橋の首を締めて気絶させることが、花を助けるための最短のルートだったわけです。しかし何故でしょう?
ここに、巧という半人間の謎が現れた、と自分は考えます。彼には何か、反省もしないような何かがある。彼が彼自身でしかない何か、それは彼の自然との関わりそのものです。
思えば、映画はその冒頭から執拗なほど、巧が自然をどのように感じているかを捉えようとしています。薪を割り、少し一服、水を汲んで、野草を見つけて、云々と流れるように進む動き。そのなかで、巧は〈人間が如何に自然と付き合えるか〉ということをなんとか体現しようとしているのです。
東京の芸能事務所が開いた、グランピング施設の説明会の中で、彼は「重要なのはバランスだ」と言っています。これは、完璧なバランスがあるという意味ではなくて、村の人々もあくまで余所者であって、自然のなかで、自然を一部壊しつつも、それでも何とか調和を保っている、ということです。
この緊張感のあるバランスに対して、人間が意識できる事とはなんでしょう。たしかに余所者としての自覚も重要ですが、日々の行為は否応なく取り掛かる必要があり、いちいち構っていることはできません。人間が、それでも自分は悪くない、そう思いたいとき、ぎりぎり出てくる言葉が「悪は存在しない」だったのかもしれません。

助けるべきもの

こう考えてみると、高橋が花を助けに行こうとしたときに、咄嗟に思っていたであろうこと:「あの鹿は手負いの鹿、悪い鹿だ」こそ、巧が消し去りたいものだった、と考えることができます。それが花を助けるための最短の道であるのは、花にとっても「悪は存在しない」ことが自然との関わりのベースにあるものだったから、ということになるでしょう。
ただし、花がもし、この同じ半意識を持って自然と接しているとしても、それは巧のようにやや後ろ暗い気分を伴ってはいません。花の態度は天真爛漫で、反省をしないのではなく、そもそも、まだ反省をするほどではない、というだけなのです。「悪は存在しない」というより「悪ってなに?」こそ、ハナの態度というべきでしょう。
だからこそ巧にとって、花の自然との関わりを優しく保ってあげることが最も重要だったのかもしれません。眼の前にあるハナの危機より、その自然との関わりを重視する。それが映画の最後、巧の半意識に到来した事態だった、ということになるでしょうか。

いずれにしても、この映画のラストは悲劇でしかありません。ただ、タイトルの余韻が続くので、それを考え続けている間中、私達自身が自然との関わりを捉えようとしているかのようです。それこそ、映画の中と現実において共通している課題ともなっています。

限界

さて、以上のように書いて来ましたが、このように自然と人間の関係を考える枠組みのなかには、その土地を耕して、開発して、という側面はあまりありません。映画のなかでも農家や猟師は直接出てきません。「アフター6ジャンクション2」の宇多丸さんの映画評の冒頭、取り上げられたコメントのなかでも指摘がされていました。これは結構、キツい指摘で、上述の諸々の観相が、そもそも訪問者・消費者として自然と向かい合う人間の範囲に限られている、と言えるでしょう。
とはいえ、そうやって自然を体験して、その体験を消化しようとする人々がいることも事実で、決して悪いわけではないはずです。ただ、あくまで限界もあるのでは、と思ったので最後にメモしておきます。

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