私たちは、今ここにしか生きられない。
紛れもない事実
悲観的な意味でも、楽観的な意味でもなく、タイトルに書いたことが頭にふと浮かんだ。そして、それは時間が経つにつれ、ぐるぐると頭の中を回り出した。そうしているうちに、それが紛れもない事実だということを改めて痛感し、心に突きつけられた感じがした。気がつくとパソコンの前に座り、こうしてこの記事を書いていた。
ある時刻にA地点にいることを決めれば、同時刻に別の場所B地点には存在できない。突然だが、こんなことは当たり前だと私は思っていた。考えるには値しないと。しかし、私がタイトルに書いたことの本質はまさにこれだった。たった今、この地球上のどこかで悲惨なことが起こっていようと、私の「今」は「快適な部屋で記事を書いている」に過ぎない。ここにいて記事を書くことを「選択」しているからだ。もっと重要なことがある。過去に自分がしてきた数々の選択によるその時の「今」の積み重ねで、現在の「今」の自分がある。これは、紛れもない事実でどうすることもできない。こう考えると日々のどんな選択さえも、将来へのその影響を考えれば大小は付けられなくなる。過去に戻って修正することも、将来に行って影響を確かめることもできない。だから、私たちは今ここにしか生きられないのだ。
私は今を生きられているだろうか
皆さんは日常のどこかで、瞬間的に漠然とした不安に駆られることはないだろうか。私は寝る前にしばしば、漠然とした底知れない不安に駆られ、克服したはずの死の恐怖さえ蘇ることがある。その時は不安で心細く、心が凍えているように感じる。でも、今日、タイトルに書いたことが頭の中をぐるぐると回り始めてから、改めて思ったことがある。その「不安」にも「死」にも今はまだ直面していない。漠然とした不安がリアルな悩みに変わることにも、困窮するような状態になることにもなっていない。ましてや死んでいない。こうして生きて記事を書いているから。振り返れば、今日の一日なんか、とても充実していて幸せだった。それなのに、その幸せな瞬間にどれだけその「幸せ」を目一杯感じていただろうか。幸せを感じている時にはもちろん不安は感じない。でも、幸せだった一日の最後に幸せな気持ちは忘れて不安を感じることがある。幸せな気持ちのまま眠りにつけたらどんなに、それこそ幸せだろうか。
今この瞬間が未来を創る
ここまで書いてきて、事実は一つ。「私たちは、今ここにしか生きられない。」このことは私の価値観として大事にしてきたつもりだが、もしかしたら日常の中で実践レベルまで落とし込めるほど納得していなかったのかもしれない。今日改めてこの記事を書き始める前から、書いている今も、これほど真剣に向き合ったのは初めてかもしれないと感じている。そして、真剣に向き合ったからこそ、一筋の日差しのようなものが、雲間から見えてきた気がしている。それは「意識の方向性」だ。今までは事実として知り、受け入れるところまでしかできていなかったことに気づいた。今しか生きられないならば、「今」から創り上げよう、積み上げようという意識が圧倒的に欠けていたように感じた。「今にしか生きられない」という事実をベースに、自分の直感を信じ意識的に「選択」はしてきたが、「今」からその「選択」を通して、創り上げたり積み上げるという意識がまさに欠けていた。「今」自分が思うこと、感じること、考えること、それらを全て駆使して、自分自身を、そして何より自分の人生を創り上げていく。「今」の自分や人生は過去の「結果」に過ぎない。今からでも遅くない。いやむしろ今しかない。だって、私たちは今ここにしか生きられないから。そう、「今」から創り上げよう。