マスクを身に着けるようになって
早朝、二回目の目覚ましで起床。
制服に着替えて顔を洗い、スキンケアをして弁当をつめ、ニュースを見ながら朝食を取る。
片付け後、歯を磨いて戸締まりをし、マスクをつけて出勤する。
上着や帽子を着るように、マスクを最後に身に着けてから家を出るようになって三年。
今やマスクは、生活の流れの一部になっていて、日常に違和感なく馴染んでいる。
ストックは切れないように気にしてその都度買い足して、ドラックストアに行ったなら一通り値段を見て安いかどうかの判断がつくくらい見慣れているし、いつ汚れてもいいように予備を持っていたり、お出かけ用のお洒落で上質なマスクを服に合わせて選んだりもする。
根暗な私は、顔を隠したくなる周期があるものだから、マスクが日常化することは有り難いと思う反面、敏感肌にはツラい環境でもあった。
無添加の敏感肌用のスキンケアを愛用している身としては、マスクの長時間着用は出来るだけ避けたい。
混合肌という乾燥したり脂が浮いたりする気難しい肌を気持ちよく整えるには、気を付けるべきことが多い上、ウイルスを防ぐために推奨されている不織布マスクがどうやら肌に合わなかったようで、鼻下と口端にデキモノが頻繁にできるようになってしまった。
擦れた頬は常に赤みを帯びているし、首が異様に痒くなって湿疹ができた。
鏡を見るのが億劫になって、それを隠したくて人前でマスクを外すことはなくなった。
半年もするとイライラが募りに募って、これではいけないと試行錯誤の末、綿のマスクの上から不織布マスクをすることで落ち着いた。
窮屈でメガネも曇るけれど、落とし所としては悪くないと思う。
マスク生活によって、口紅をつけない女性が増えたとか、表情筋が弱くなって笑顔がぎこちなくなったとか、聞くけれど、私は化粧について考えることが増えた。
肌の不調が続いた上、綿のマスクにファンデーションがつくのが嫌で、化粧をしないことが増えていた。
はじめは、マスクで見えない口周りだけ。徐々に、ここもいいか、これもいらないか、と着実に化粧離れしていった。
それと同時に、化粧をしないことへの罪悪感のような忘れていた違和感がふつふつとわいてきた。
それは、典型的なルールが私の中にあったからだと思う。
化粧と外出を考える時、いつも思い出す場面がある。
「お化粧は、女の義務だよ」
ジリ貧学生だった私に、バイト先の社員が言った。たしか陳列棚に乳液を並べている時だった。
彼女はドラックストアの化粧品アドバイザーとして働いて二年目で、化粧水しかつけてないと言った私を少し強い口調で責めた。
「今はいいかもしれないけど、社会人になったら恥ずかしいよ」
入社数年の若い社会人で、しかも女性がそんなことを言うなんてひどく驚いたのを覚えている。
今どき化粧強要なんて流行らないと思ったけれど、それ以来私の中で、化粧は義務で必ず行うべきものという位置づけになってしまった。
インプットされてしまったルールは明確に論破されない限り遵守という頭の硬いマニュアル人間にとって、もっともらしい言葉は、簡単に刷り込まれるものだ。
彼女が一際綺麗で、しっかりとした社会人に見えたのも要因の一つだろう。
社会人になってからはより顕著で、化粧していないと、自分だけでなく周りの人に対しても、やる気がないし、駄目だなと思っていた。
コロナ禍になってもその考えは変わらなかったけれど、マスクによる明らかな肌の不調が度々あり、また人の目に触れないのだからと違和感を抑え込むと、徐々にルールも薄れていった。
そして、クレンジングや洗顔で、肌のコンディションが悪くなっている気さえした時、化粧をして落として肌を傷めて、隠すために濃く化粧をして、整えるために高い化粧水やクリームを買って、また傷めてというその繰り返しに気づいて、そうなってくると、あれ、何のために化粧をしているのだっけと、やっと考え始めたのだった。
マスク生活によって顕著になっただけで、肌の傷みや繰り返しは以前よりあったはず。
綺麗に、清潔に、見えるようにしたかっただけで。
それはマスクをつける前と後とで変わりはないはず。
手段であって目的ではない。
よく聞く言葉だけれど、なるほどなと頷くのであった。
清潔に敏感にならざるを得ない窮屈な生活の中でも、確かに気付きがあって、考え方を変えてみればより良い方向へ進むことは出来るのだなとしみじみ思った。
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