空#100 / My dream blooms.
記念すべき100日目。そんなめでたい日ですら、いつもと変わらぬ日常であって欲しい。それが私の密かな願い。ただ今夜は少し夜更かしをして(とは言っても日付を跨ぐ前には寝るはずだけど)、私の1番好きな紅茶を淹れて、この100日を1人振り返ってみようと思う。
そんなこんな考えていたらいつの間にか今日はあと2時間を切ってしまった。少し焦り気味でパソコンに向かい合っている。それもいつも通りと言っちゃあいつも通りだ。
■私にやり遂げられるのだろうか?
それが最初に抱いた感情だった。私は何かを続けることが苦手だった。それに責任を負うことからも逃げ続けてきた。当時の主治医から
「責任を負うような役職は避けるように。」
と言われていたのもある。けれど今回100日毎日投稿するということを成し遂げることが出来た。
それは“これからの私”をきっと強化してくれるに違いない。
■徐々に楽しくなり勢いもついて来る
色んな空の表情と向き合いながら、お気に入りの場所へ出掛けたり、見慣れた景色の季節変わりした姿を発見したりしながら、毎日の投稿が楽しくなってきたのが始めてすぐ位から空#30くらいまで。そこまではあまり深く考えずにただ
その気持ちだけで前へ進めた。
■その内に代り映えのない写真や文章に自分自身が飽きてくる
天気が変わりなかったり、気持ちが空に向かなかったり、他にやらなければならないことがあったりと、心が分散し始めていった。そしてスキの数も減り、記事を書いている当の本人が自分自身の文章に飽きてきてしまった。そこには
という半ば強制的な指示を、自らに課していたから。途中まで楽しく続けられていたのに、どうしてこんな気持ちが途端に湧いてくるのか? ちょっと不思議なところではある。
■次第に孤独を感じるように
試行錯誤しながら日々書き留める自分の記事と向き合ってみるのだけれど、いつの間にか私はまた孤独に陥っていた。空#50を過ぎた辺りからその傾向は勢いを増した。誰かに相談したり頼ったりするのが苦手な私。相談するということがトラウマでもある。それ故に“頭の中に浮かび上がる疑問を文字にして伝える”ということができなかった。書けない時には、書けないということを書けばいい。そんな風に教わった筈なのに、私はそれすらも
と、どこか恰好つけようとしていた。
■私の中の私たちへ目を向けることで見えてくるもの
格好つけながらも、ありのままに藻掻き苦しんで考え抜いたのが、1日1日を特定の自我状態に焦点を当てて過ごすというもの。その日の空を見上げて思いついたり、心の状態によってメンバーを厳選して、その日交わした会話や思い浮かんだアイディアなどを書き残していった。そしてそこで改めて気づいたこと。
ブレ始めていた自分の心を正すタイミングを与えてもらえたことで、再び記事を書く楽しさが少しずつ戻ってくる。
■最終的に行きついた“私がnoteを続ける意味”
私の書く文章には、トラウマ治療も並行しながらの投稿ということもあって、ワークの内容や自我状態たちとのやり取りの影響は大きい。2024年も暮れていくということもあって、私はここぞとばかりに友人・知人との会う約束を詰め込んだ。するとアウトプットしたいことが増えていくのだが、パソコンのキーボードをぱちぱちと打ちながら
「果たしてこれ、誰かに届いてるのかな?」
なんて疑問を抱き始める。そして大切なことをまた一つ思い出す。
それに気づいた時、私は今自分の為にこうして言葉を紡いでいるんだという“私がnoteを続ける意味”に辿り着くことができた。だから格好つける必要もないし、読者やスキが少なかろうが、相手に上手く伝わっていなかろうが気にすることはなかったのだ。
誤解のないように言い訳をしておくと、最終目標は多くの人に読んでもらえる記事を書き続けること。そして一人でも多くの心に届く言葉を綴ること。そこは間違いなく目指しています。けれど”今の私”にできる今の精一杯を考えると、これが限度だということに気づけた。自分の実力を客観視できたということに繋がるかな? とにかく、何かが突き抜けた感覚がそこにはあった。
“noteを続ける意味”を見つけ出せたからと言って
『もっと読んでもらいたいな。』
『スキ、増えないかなぁ。』
そんな感情たちが消えることはない。だって私の中に存在する自我状態だから、なかった事になんてできないのだ。それも含めて私であって、それが生きるということで、みんなで話し合った結果行きついた答えが今(ここ)ならば私は堂々としていればいいだけのこと。
100日目だからって気合を入れ過ぎたのも事実。でもただ単に書きたかったというのも事実。そんな一つ一つの事実を、私の中の私たちとひとつも残らず掻き集めて導き出す“真実”をこれからも書き残してゆきたい🫧