『天啓予報』第52章 人はいかにして昇華者となるか

第五十二章 人はいかにして昇華者しょうかしゃとなるか

「なんでだよ!」
 自分はそんなたいそうな暗黒勢力に目を付けられたのか?
 槐詩かいしは憤激してテーブルを叩いた。
「ちょっと脚を蹴飛ばしたぐらいで、どうしてこんなことになるんだ?」
「なるほどな!俺にははっきりとわかった」
 柳東黎りゅうとうれいは手を上げて訂正した。
「お前は奴の指を捻っただけじゃなく、奴の髪を抜いて、奴の箱を奪い、そのうえ奴のズボンのまたぐらを蹴って、奴の脚を蹴った!俺が王海おうかいなら絶対にお前を許さない」
「お前だって奴を殴ったのになんですぐに忘れられたんだ?」
「許せ。俺は一介のホストだ」
 柳東黎は得意げにウインクした。
「そう、弱くて可憐な」
「ハゲの」
 槐詩は付け足した。
「言い過ぎだぞ!俺の髪はもう伸びてきた!」
 柳東黎はかつらを取り、顔を近づけて自分のわびしい生え際を指さした。
「見えるか?もう伸びてきたんだ!」
「はいはい、伸びるのも早いし、減るのも早い」
 槐詩は一目もくれずに、黙々と飯を食べた。
 それにしても、この鴨は美味い。どうせ柳東黎の奢りだと、遠慮もせずに槐詩はスープを追加注文した。
 槐詩の沈んだ心情を察したように、柳東黎は煙草の火を消すと、届いた料理を槐詩の方へ押しやった。
「怖がるな、王海は下っ端だ。お前が牧場主と直接対決することはない。天文会を見くびるなよ小僧。お前の後ろ盾は天下第一等の大組織だ。牧場主ぼくじょうぬしが現境に現われたとしたって、至福楽土へ追い返してやるさ」
 柳東黎は言った。
「もしやばいと思ったら、すっぱり辞職すればいい」
 槐詩はちょっと動きを止めたが、また下を向いて鴨の腿を齧り続けた。奇麗に食べられた骨を小皿に出すと、彼は紙ナプキンで手を拭いた。
「いや。怖いわけじゃない」槐詩は言った。「ただ……ちょっとむかついただけだ」
「うん?」
「牧場主がもっと恐ろしい奴でも、俺が心配する必要はない、だろう?」
槐詩は顔を上げ、真剣に言った。
「だけどどうして……ただ普通に生きていきたいだけのことが、どうしてこんなに難しいんだ?」  
 柳東黎は驚き、黙り込むと、しばらくして頭を振って溜息をついた。
「生きていくのはそもそも簡単なことじゃない、槐詩」
 彼は言った。
「ある時には、昇華者しょうかしゃは一般人よりも選択肢を多く持っているように見える。だがある時には、選択の余地なんてない。思いもよらないことが起きて、苦痛や不安を感じたとしても、ただ受け止めるしかない。望むと望まざるとにかかわらず、だ。それがお前が選んだ人生だ。  
 お前は昇華者になった時、過去の人生に別れを告げたんじゃないのか。槐詩、お前は過去に留まっているだけだ」
 少年を見るまなざしは複雑だった。
「もしただ平穏無事な生活を送りたいだけなら、簡単だ。俺が手伝ってやる――名前と身分を変えて、他の街に行って新しく始めればいい」
 槐詩は首を振った。
「俺の家はここにある。どこへ行くっていうんだ」
「家の中には何もないじゃないか」
「それでも俺の家だ」
 少年は静かに答えた。
「家があれば、外でどんな酷いことがあったって、俺は帰る家のある犬だ。だけど家がなかったら、俺は野良犬になっちまう」
 柳東黎は沈黙した。
 それ以上何も言わず、ただ槐詩の肩を叩いた。
  ※
  ※
 食事の後、柳東黎は洗面所に行って長いこと席を外していた。いったいどれだけたくさん発毛剤を塗ったのか。
 勘定の後、柳東黎は槐詩にどこに行くか尋ねた。ついでに送っていくという。
「また車を買ったのか?」
 槐詩は驚いた。
「レンタカーだ」
 柳東黎は運転していたが、窓の外を見ながら、突然言った。
「俺は行くよ」
「え?」
「言っただろう?二年ほど遊びに行く。このところ荷造りをしてた」
 彼は車の窓を開け、煙草に火を点けた。
「明日早朝の金陵発の飛行機で」
「どこ行くんだ?」
「まずアメリカだ。連合体の自由都市には面白い場所がたくさんあるらしい」
 柳東黎は自分の長い旅行の計画を話した。
「それからローマかエジプトへ。金がなくなったら戻ってくるよ」
「ああ」
 槐詩は頭を掻いた。
「気を付けて」
 柳東黎は頭を振って笑うと、何も言わずに、傍にある紙袋を取って槐詩の胸に押し付けた。
「やるよ」
 槐詩は紙袋を受け取って開けた。中には平たい箱が入っていた。取り出してみると、箱の蓋にはマークがついていた。俄かには信じられなかった。
「どこで手に入れた?」
「前にローマの友達がくれたんだが、ずっと忘れててて、まだ開けてない。荷物を片付けてる時に出てきた。いまはみんなスマホで音楽を聴いてるだろう?どうしようかと思って」
 柳東黎は言った。
「気に入ったら使ってくれ」
「じゃあ遠慮なく」
 槐詩は嬉しそうに笑った。CОWОNのマークの付いたプラスチックパッケージを開け、手のひらサイズのプレイヤーを取り出した。
 黄銅色のボディ、側面の二つのつまみ……槐詩はつくづくと眺めた。
 辺境の遺物を手に入れた時よりもうれしかった。
 皆がスマホに慣れた時代では、МP3と言われるものを使う人間は既に少なかった。CDと同じように時代に捨て去られ、熱心なファンしかこの手のものに関心を持たなかった。
 在庫はプレミアがついて高くなっていた。
 ただのプレイヤーだが、芸術品と言ってよかった。
 もし同じ値段の他の物だったら、槐詩は受け取らなかったかもしれない。だが柳東黎が選んだこの品は躊躇う余地はなかった。
 助手席で笑う少年を見て、柳東黎は頭を振って溜息をついた。
「若いっていうのはいいな……」
 ようやく石髄館せきずいかんの門前に車が停まった。槐詩は車を降り、満足そうにプレイヤーを身に付け、手を振った。
「いい旅を。戻ったら飯を奢る」
「そうだな」
 柳東黎はふっと笑い、手を振った。
「お前も気を付けて」
 車は去った。
 槐詩は柳東黎の姿が消えるまで見送った。心に突然隙間ができたように彼はしばらく佇んでいたが、頭を振って別れの寂しさを振り払おうとした。
 これ以上悲しんではいけない、これ以上悲しむとゲイになってしまう……
 今はただ柳東黎の旅立ちを祝おう。
 事実、家に帰ると、槐詩はまた悲しむことになったのだ。
 烏鴉うやは槐詩の前のテーブルの上で、エプロンを付け、首に小型の聴診器までかけ、羽で黒緑色の薬剤を持っていた。
「さあ、身体検査よ!」
 烏鴉はどこからか眼鏡を取り出すと嘴の上に乗せ、艶めかしい声で言った。
「お姉さんに見せて、あなたがちゃんと成長しているかどうか……」
 これがカラスでなければよかったのに。
 槐詩は溜息をつくと、ソファに寝そべり、烏鴉のするにまかせた。
 実際のところ、病院で簡単な検査をするのと同じぐらいの設備が揃っており、毎日の習慣になっていた。体重と身長を計ると、次は採血して様々な薬品を使って検査をする。
 槐詩のような錬金術の知識がないに等しい者からすると、何をやっているのかさっぱりわからず、またわかろうともしなかった。だが自分の体に対する変化を直感で感じていた。
 成長速度は速まっていた。
 槐詩は毎日はっきりと自分の体が強くなっているのを感じていた。成長痛で夜中に目が覚めることも何度かあった。
 ここ二日の筋肉痛のあと、心臓の鼓動にたまに乱れを感じ、いつも内臓と四肢に幻痛を感じていた。
 一週間も経たないうちに、槐詩の身長は四センチ伸び、持っていた服は殆ど着られなくなってしまった。
 そして、槐詩の細かった腕と脚には筋肉の輪郭が見えるようになった。
 両手は爪の成長速度がどんどん速くなり、毎日爪を切り、切るたびに、幻覚のような硫黄の匂いがした。
 烏鴉によれば強化の副作用だという。
 槐詩が強化している方向は感知型で、筋力はそれほど増強しないだろうとのことだった。
 一部の関節や腱、骨格と、反射神経と内臓の負荷能力も少し強化される。だが最も重要なのは視覚、聴覚、嗅覚と触覚の強化である。
 烏鴉の評価によると、感知型は最も生存に適しており、遠くまで見え、多く嗅ぎ分けられ、広く聞き取れ、逃げるのが早い……すばしこく特殊な道具がなければ捕まえらない賢い犬のようになれるという。
 だが困ったことががひとつ。
 なぜかはわからないが、最近顔の色が白くなってきて、化粧をした優男みたいになってきている。もともと日に焼けていた腕はいまは玉のように白く、皮膚の下の血管まで透き通って見えるほどである。
 がっしりとした男らしいスタイルに憧れている槐詩には不満であった。
「なよなよしすぎじゃないか?」槐詩は鏡を見て言った。「もっと普通にならないか?」
「薬がよく効いているみたいね」
 烏鴉は自分の成果に満足そうに頷くと、眼鏡を外した。
「この調子でいけば、あと一週間ぐらいで死ぬわ」
「なんだって?」
 槐詩は警戒した。
「え?何かまずいことを言ったかしら?」
 烏鴉は無垢な目をパチパチさせた。
「『死ぬ』って聞こえたんだけど」
「幻聴じゃない?」
 烏鴉は咄嗟に視線をそらせたが、槐詩の視線に仕方なさそうに溜息をついた。
「これは成長期によくある症状で、思春期のようなもの。ちょっと恥ずかしいことが起こるけど……慣れないといけないわ」

訳者コメント:
柳東黎が槐詩にМP3プレイヤーをあげるシーンが大好きです。祭祀刀を手に入れた時よりもよろこんでいる槐詩。若いっていいな……
ちなみにこのМP3プレイヤー、後々まで出てきます。


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