『天啓予報』第36章 報い

第三十六章 報い

 槐詩かいしは目を見開いた。見慣れた天井が見えた。
 槐詩は生きていてもしょうがないという気持で天井の埃を見た。
 俺はどこにいる?
 俺は誰だ?
 俺はどこに向かおうとしている?
「まだ続ける?」
 烏鴉うやは忍び笑いをしているようだった。
 槐詩は溜息をついた。夜道で柳東黎と別れる際に感じた殺意を思い出し、暗がりから彼を見つめる目を想像した。
 いったいこの不遇な人生はいつまで続くのだろう?
「続ける!」
 槐詩は歯を喰いしばり、目を閉じて、再び漆黒の中に落ちていった。
烏鴉は憐れむように首を振り、スマホを取り出すと、さっきのスタンプの下にまた字を打ち込んだ。「おかわり」と。
 そして、また滅多打ちが始まった。
 滅多打ちは翌日の午後まで続き、なんとか無傷でクリアできた時、槐詩は思わず泣きそうになった。
 紅手袋べにてぶくろは、ほんとうに凄い奴だ! 烏鴉がもっと続けるように言うのを断り、槐詩は柳東黎りゅうとうれいが払った電気代の残りで珍しく温水でシャワーを浴びると、正式な演奏の時だけに着る黒のスーツに着替え、出かける準備をした。
「あなたがおしゃれするなんて珍しい」
 烏鴉はからかった。
「女の子とデート?」
「……葬式」
 槐詩は溜息をついた。
 どこにも女の子などいない。
 今日はようの葬儀の日だ。なにがあっても行かなくては。
 彼ら夫婦はずっと自分によくしてくれた。特に嫂さんが。このご時世、お先真っ暗な人間に自力更生の機会を与えてくれる人間がどれだけいるだろう?
 たとえ楊が自分へのバイト料からピンハネしてたとしても、大した額ではなく、結局は助けてくれたのと同じことだ。
 何はともあれ、槐詩が尊厳を持っていままで生活でき、肉体労働や屑拾いをしなくて済んだのは、楊のおかげだった。
 それに、楊は頼りないとこもあるが、槐詩とて高等な人間ではない。長年お互いに迷惑をかけたりかけられたりが、すっかり慣れっこになっていた。
 友人とはそういうものではないか?
 いま楊が逝って、どうして見送りに行かずにおれようか。
 槐詩が斎場に着いた時、告別式はもうすぐ終わろうとしていた。
楊はずっと仲介業をしていて、人脈は広く、友人も多く、地元の親戚も少なくない。いまも送別に来た人間で黒山の人だかりができていた。
 槐詩は黙々と列の後ろに並んだ。彼の番が来た。槐詩はどうしても楊のことが見られなかった。手に持った花を置き、楊の妻の視線を避けるように、背を縮めて速足で出ていこうとした。
 楊は老塘鎮の教会で死んだが、対外的には交通事故ということになっていた。葬儀社の復元により、めちゃめちゃになった顔はもとよりもいくらかハンサムになっていた。まるで眠っているようで、なんの心配もなさそうなのが、槐詩を苛立たせた。
 このバカは金のために人生の大半を苦労し、ついに自分を売ってしまった。望み通り、身軽に死んでしまった。
 近くの人が話しているのが聞こえてきた。遺産を整理すると、楊は妻に大金を残していたらしい。治療を続けるのに充分なほど。
 槐詩はそれ以上聞きたくなくて、そこから離れた。
 遺体との告別の後、棺桶は火葬場へ送られた……槐詩には意外なことに、楊の妻は目のふちを赤くしていたものの、最初から最後まで泣かなかった。却って楊が体裁よく出発できるように、別れの会を整然と切り盛りしていた。
 あのバカは、どうやってこんなにいい妻を娶ったのだろう?
 槐詩の気持はますます複雑になった。
 すぐに葬儀は終わり、客たちが帰っていく時、槐詩は楊の妻からの伝言を受け、奥の部屋に向かった。
 葬儀場の親族控室の中、彼女は他の人を全部追い出し、ドアを閉めると、バッグの中から厚い封筒を取り出した。
「……これは?」
 槐詩は驚き、テーブルの上の封筒を見た。もし中身が金だとしたら、少なくとも一万元はあるだろう。
「受け取って。楊があなたに借りていたお金よ」
 彼女は恥ずかしそうに笑った。
「彼が生きていた時に色々したことは、全部私のため。結局は私のせいなの。
 槐詩くんはいい子で、お金を騙し取られてもいつも何も言わなかった。だけどこのお金はずっと借りたままにはしておけない。あの人は逝ってしまった。私はあの人のためにきちんとしたいの。もし私のことを考えてくれるなら、断らないで受け取って」
 槐詩は黙って、テーブルの上の封筒を見ていたが、しばらくしてゆっくりと首を振った。
「貸し借りなんてないよ」
 槐詩は呟いた。
「昔、俺が物事がわからなかった時、人が俺を助けてくれるのは、俺が将来百倍千倍にして返すのを期待してるからだと思ってた。だけどだんだんとわかったてきたんだ。時には、見返りを期待しないで助けてくれる人もいるって。
 楊兄ようにいが聞いたら笑うかな?
 俺がいちばん困ってる時、楊兄が助けてくれた。それで十分なんだ。
 何の貸しもないし、借りもない」
 槐詩はゆっくりと机の上の封筒を押し返し、真剣に言った。
「だから、もしこの中に俺の取り分があるとしたら、二人が俺を助けてくれたことへのささやかなお返しにさせてほしいんだ」
 楊の妻はしばらく黙っていたが、もう拒絶の言葉は口にしなかった。
 彼女は顔を上げ、強いて笑顔を作った。
「あの人が聞いたらきっと照れるわね」
 まさか。きっと得意がるさ。
 槐詩には目に見えるようだった。
 楊が素早く封筒を取って妻の鞄に押し込み、槐詩に向かって得意満面に『要らないと言ったんだから、後悔しても遅いぞ、今夜は女房と美味いものを食べに行く』と言う様子が。
  ※
  ※
 告別式が終わると、槐詩はその後のセレモニーには参加せずに帰ることにした。告別式だけでもつらかったのに、楊の奴のために二度も心を痛めたりするものか。
 それに楊の妻が泣き出すところを見たくなかった。
 来る時は急いでいたのでタクシーに乗ったが、帰りは節約のために公共交通機関を使うことにした。バスを二度乗り換え、市全体を横切ると、やっと新海の反対側の端の家に着く。
 地下鉄が開通すれば便利になるのだが、新海の地下鉄は槐詩が生まれた頃に工事が始まり、いまだに地下を掘り続け、電車はまだ影も形もない。
 新海は中型都市で、市内を行き交う人と車は多く、朝と夕のラッシュ時は少しは渋滞もするが、地下鉄がなければやっていけないというほどでもない。
 時間が経つにつれ、人々は期待しなくなっていった。
 長い乗車時間に、槐詩は十万年も開いていなかった微信ウェイシンのアプリを開き、なにかないかと見てみた。
 長年の貧困のせいで槐詩の人間関係は取り立てて言うほどのことはなく、親しい人間は一人二人で、それも槐詩の事情を知っているので、夏休み中も特に誘われることはなかった。
 いまやゲーマーの情報交換の場と化しているクラスのグループチャット以外、特に何の連絡も入ってない。
 槐詩は画面を上にスワイプしていった。ゲームと食事の誘いの連絡、新学期の練習室の使用時間割の通知、そして一枚のバカバカしい画像。
 槐詩はショックを受けた。槐詩は自分がホストクラブの前に立っている写真が加工されてスタンプになっていることを知った……
「人の心がないのか!」
 槐詩は怒り、自分のスタンプを使った奴らの写真を探し出し、パンダの画をくっつけて、一枚一枚送りつけた。
 ネット友達との低レベルな争いをしている時、槐詩の手がふと止まった。バスの最後列から、自分に悪意のある視線が向けられているような気がした。
 烏鴉の言う成長期が感性まで豊かにさせているのかどうかわからないが、いまの槐詩は他人の悪意に対していつも以上に敏感になっていた。
 もちろん読心術の域には達していないが、じっと見られ、首の後ろを毛虫が這うようなチリチリとした感覚に、槐詩は全身を緊張させた。
 槐詩はバックミラーで、最後列のハンチングを被って眠ったふりをしている男をこっそりと見た。悪意を含んだ視線は明らかにその男のものだった。
 男がスマホで何かしているのを見て、槐詩はサッと立ち上がり、停留所で素早く下車した。
 予想通り、その男は驚き、だが気づかれないように追いかけてきた。
 車が行き交う街の中心で、最も賑やかな遊歩道を、散歩でもしているようにその男はぶらぶらと歩き、途中で煙草を一箱買い、だがずっと槐詩の後ろを尾け、視線の届く距離を保っている。
 その男の怪しい表情と下品な視線、そして隆々と盛り上がっている大胸筋に、槐詩はふと身震いし、肛門がキュッとなった。嫌な疑惑が心をよぎった。
 まさか、ゲイの変態か?
 十分ほど街をぶらついた後、槐詩は確信した。背後の男は間違いなく自分を尾行している。
 でなければ偶然同じ公衆便所に入るなんてことがあるだろうか?
 何事もなかったかのように、槐詩は人通りの多い遊歩道で足を速め、二つのマーケットを通り抜け、幾つかの角を曲がり、旧市街の市民広場に入った。
 尾行者ストーカーも同じように右に左に角を曲がって、ずっと槐詩を視界から逃さなかった。だがある角を曲がった時、槐詩の姿は忽然と消えていた。
 尾行者が驚いて周囲を見回すと、ガラスの扉の前で、その少年がポケットを探っているのが見えた。少年は五元を取り出し、カウンターの女将にしつこく値切り交渉をすると、図々しくカードキーを受け取った。
 そして、大きな建物の中に入っていった。
 尾行者はぽかんとし、驚きながら顔を上げ、店の看板を見た。
 春天大浴場。

訳者コメント:
中国では日本よりずっとタクシーの料金が安いのです。それにしても公衆浴場の入場料まで値切れるとは……

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?