『天啓予報』第8章 プランB
第八章 プランB
「――死んで当然の奴らだ。俺にそれだけのことをした。だろ?」
「……」
烏鴉は黙り込んだ。
「そんなわけないよな」
槐詩は独り言のように呟いた。
「わかってる。誰にでも好かれることなんてあり得ないし、俺を嫌いな人間だっているさ。だけど、罰を受けるようなことをした奴だとしても、一人だって死んでいい人間はいない。みんな俺と同じ、生きてる人間なんだ。無辜の人間の命を奪うことなんかできない」
そして、烏鴉に向かって言った。
「だから、お前の言うことは胸糞が悪い」
槐詩は烏鴉の目を見て、一字一句に力を籠めて言った。
「――胸糞が悪い、反吐が出るほど」
「……ううう、なんでそんな怖い顔するの」
烏鴉は悲しそうに泣き始めた。その様子は芝居がかっていて、嘘泣きであることを隠すつもりがまったくないことは明らかだった。
「姉さんはあなたのためを思って言ったのに。すべてをあなたに捧げて尽くしているのに。ちょっと聞いてみただけじゃない?」
言いながら、彼女は涙を湛えた目でパチパチと瞬きした。
だが残念なことに、その様子はまったく可愛げがなかった。
「姉さんは真心から、あなたに確実な方法を勧めただけなのよ?でもいいわ。プランAがだめなら、プランBよ!」
「……プランBって?」
「簡単よ。人を殺すのが嫌なら……」
烏鴉はちらりと槐詩を見た。
「自分を殺せばいいのよ」
次の瞬間、槐詩の眼前が真っ暗になった。.
※
※
槐詩は長い長い夢を見た。
ふわふわとした不思議な感覚の中、槐詩は自分はちょうど仕事が終わって帰途についているのだと思った。
地下鉄のホームで電車を待っている間、槐詩は経済書を読んでいた。ふと胸に昼に自分が解雇したクズの労働者への軽蔑感がよぎった。電車の音が近づいてきて、槐詩は本から目を上げた。
槐詩の背後から怨念の籠った声が聞こえてきた。
「死ね!」
誰かの両手が槐詩の背中を押した。
槐詩の体は浮き、線路に落ちていった。地下鉄のライトの光が近づいて眩しかった。槐詩の体は轢かれてずたずたになった。最後に聞いたのは自分の頭蓋骨が砕ける音だった。
言葉にできない程の苦痛が槐詩を襲った。叫ぶことも、恐怖することもできないうちに、槐詩の意識はバラバラになった。
その次に、槐詩は世界を股にかけるマフィアの首領になったが、いまは部下に裏切られて公園に逃げ込み、投降するよう最後通牒を突き付けられていた。
槐詩は冷笑すると、部下に向かって銃を向けた。
バン!
はるか上空から音が聞こえた。槐詩は体の感覚がなくなっていくのを感じた。最後の瞬間、部下の声が聞こえた。
「撃つな、彼はもう……」
爆発に巻き込まれた?
暗がりの中、槐詩はピクリとも動かなかった。まるで一連の悪夢のようだ。槐詩は突然自分が中年のいかつい男性になっていて、奇妙な鎧に身を包み、銃を担ぎ、ルーブル宮殿に突っ込んで虫のような異形の生物と闘っていることに気づいた。
槐詩は最後の意識でこう考えた。
リロードしなくちゃ……
リロード?ゲームか?なんの罰ゲームだ?!
槐詩は『自嘲』したが、すぐに笑えなくなった。なぜなら槐詩はいま城門の前で、両手を釘で刺し通され膝まづいていたからだ。だが痛みは感じず、 まるで酒にでも酔っているようにぼんやりしながら、目の前の白髪の人物に笑いかけた。
こいつはなぜ俺を睨みつけている?俺は何かしたのか?
すぐに、冷たい月光のような刃が首に振り下ろされた。
頭が斬り落とされた。
つづいて、熱狂的な叫び声の中、槐詩は木の杭に縛り付けられ、炎に包まれていた。炎の外側から興奮して叫ぶ声が聞こえた。
「死ね、異端者め!」
槐詩はまた死んだ。
このようにして、槐詩は何度も殺され、その度に様々な殺され方をした。 毒殺、絞殺、水死、焼死、生き埋め、手術ミスによる死、様々な人間と槐詩が様々な事情で殺された。
死んで死んで死んで、また死んだ。
死死死死死死死死。
何度死んだかわからない。
最後には槐詩は麻痺し――完全に意識を失った。
これで終わりか?
槐詩は抜け殻になったように眠りに落ちた。
最後の瞬間、槐詩は振り返り、すべての幻象の生まれ来る場所、あれらの死の本質を見たような気がした。それらの死は一枚一枚舞い飛ぶ漆黒のページだった。無数の雪のように舞い踊る黒色がひとつに重なり、集まって悲しみと絶望の海となり、静かな世界が現れた。
それはあるいは運命の書の真の姿。
孤独の中で死にゆく氷の世界。
※
※
部屋の中は静かで、ただ事象分枝が運命の書に書き込むカリカリとした音が絶え間なく聞こえているだけだった。
烏鴉は虚ろな目で槐詩を見つめていた。烏鴉の視線は槐詩の身体を突き通して、盛んに燃える源質だけを見ているようだった。
意識と思惟が摩擦を起こし、目も眩むような火花が散った。
烏鴉は運命の書を見て、思わず溜息をついた。
「やっぱり。この書がずっと彼から源質を吸い取り続けていなければ、もっと早く覚醒していたはず……」
書の中から蘇生してから、烏鴉はずっと槐詩を観察していた。
そしていま確信した。槐詩はとっくに昇華の入口に立っていたのだ。もしそうでなければ、つまり純粋な『常人』ならば、彼は運命の書の所有者として認められなかったはずだ。
いま、最初のページの、槐詩の名の横にある、カッコの中の『応激期』の三つの文字が、次第に濃く、力を蓄え、変化しようとしている。
変化するごとに、見えない力に阻まれるように、その三つの文字はもとの位置に戻ってしまう。
そして、見えない力は羽ペンをつかみ、書の最初のページの空白の上に移動させると、曲線を描かせた。
ページの上に出現した新月のような弧は、円環を閉じようとするように両端が徐々に近づいていったが、あと少しのところで繋がらなかった。
「あと少しなのに?」
烏鴉は驚いて呟いた。
応激期とは、人間の本性が白銀の海を潜り抜けて、源質が独立し、段々と意識の中に入っていく過程のことである。
この過程によって、昇華者は唯一無二の霊魂を鋳造する。
霊魂の構造を構築する時期は短く、歴史上もっとも短い記録は五分十二秒、長くても五、六箇月……烏鴉は初めて、六、七年もの間応激期を終えない人間を見た。
運命の書が槐詩の源質を吸い取ったために生まれた空白状態だが、それにしても長すぎないだろうか?
運命の書の死亡記録でショックを与えれば、槐詩は数分で順調に突破できると思っていた。だが、この人間は入口に立っていながら、その先へ進もうとしない!
霊魂を鋳造するには足りないものがあと少し。
あと少し……
「いったい何が足りないの?」
烏鴉は目を細めた。
何か重要なものを見落としている。
その感覚はことのほか不快だったが、どう考えてもそれが何かはわからない。
構築過程が停滞に陥っている。おそらくひとつの原因のために。
槐詩自身。
烏鴉は事象分枝を通して槐詩の記録を読んだが、遡って槐詩が十歳の時までしか読めなかった。
それより前はまっさらな空白……
槐詩は何かを隠している。だがそれがいったい何なのか、烏鴉にはわからなかった。
槐詩自身が口を開かない限り、それは永遠の秘密。
烏鴉が考えに耽っていると、欠けた円に変化が起こった。
漆黒のインクの跡の中から、曲線に変化が現れ、『残月』の輪郭を形成した。
「……これは月相?」
烏鴉は驚き、呟いた。
「なんて珍しい」
霊魂の構造は未完成だが、属性は既に現れている――運命の書の分類の中、月相が対応する属性とは人の源質、それは霊魂の本身でもある。
月相に分類される霊魂が持つ能力は、霊魂の干渉、心のコントロール、意識の改造、精神の修復……この能力は絶対多数の昇華者にとって、奇異と神秘の象徴である。
「惜しいことに、器が小さすぎる」
烏鴉は首を振った。
「小さすぎる……」
それからどれぐらいの時間が経ったのか、槐詩の呼吸が荒くなり、瞼がぴくぴくと動いた。夢から醒めようとしているらしい。
烏鴉は溜息をついた。事象分枝はゆっくりと持ち上がり、頁の上の丸い輪郭の中心をそっと突いた。
インクの跡が残った。
「チャンスをあげるわ、槐詩」
烏鴉は呟いた。
「成功するもしないも、あなた次第よ」
※
※
「手に入れました」
部下は興奮した様子で事務室に入ってきた。手にはハードディスクを持っている。
「先生、ここに陳全のバカが箱を奪って逃げてからのすべての記録があります」
「足はついてないだろうな?」
『先生』と呼ばれた男、王海は、ずっと眠っていなかったように目を充血させていた。顔を上げると、血走った目が獰猛にギラリと光った。
部下は無意識に体を震わせたが、無理矢理愛想笑いを作って言った。
「安心してください。我々以外の者も探していました。誰かが調べても、そいつの仕業だと思うでしょう」
「よし」
王海はハードディスクを受け取ると、それ以上何も言わず、オフィスの中を歩き回った。しばらくして、彼は決心したように脚を止めた。
「信徒の老いぼれたちに、今週末の夜にレクリエーションと祈祷会を開く、全員参加だと連絡しろ!」
部下は驚いた。
「一昨日開いたばかりでは?いつもは月末に……」
「そんなことは知らん!口実を作って通知しろ!」
王海は怒り、部下を睨みつけた。
「口実まで俺が考えてやらないとならんのか?!天父の誕生を祝うとでも言えばいいではないか!」
「わかりました。すぐやります」
部下はそれ以上機嫌を損ねないように素早く退散した。
再び静かになったオフィスの中で、王海はしばらく沈黙していたが、ハードディスクをパソコンに繋ぎ、中のデータを調べ始めた。
モニターに映し出された映像の中、コンテナ置き場で背の高い男が突然銃を抜いて仲間を撃ち、箱を奪った。そして反撃されて傷を負い、持っていた爆弾を投げると全速力で逃げ出した……そして風俗店に入った。男は店を出るといくつかの通りを抜けて路地に入り、楽器のケースを背負った少年とぶつかった。
王海はそこで映像を一時停止し、まだ幼さの残る少年の顔を凝視した。
「こいつなのか……」
王海はモニターに顔を近づけると、血走った目でじっと画面の中の槐詩の顔を見つめた。
訳者コメント:
新しい用語、新しいキャラクターが出てきました。
この辺で脱落する読者も多いかもですが、これからどんどん面白くなるので、お付き合いいただけると嬉しいです……