『天啓予報』第22章 白帝子

第二十二章 白帝子はくていし
 
 その瞬間、凶暴な風が吹き過ぎた。
 空高く浮かぶ掌がゆっくりと起き上がり、はるか遠くの燈火煌めく新海市に狙いを定め、五指をゆっくりと握り込んだ。
 まるで何か見えない物を掴むかのように。
 力を込めて!
 空気を切り裂く鋭い音がした。まるで無数のガラスを引っ掻くような音が重なり、人を発狂させるような巨大な音が広がった。
 天地が揺れた。
 まるで蒼穹と大地を固定していた楔を引き抜いたように。
「とにかく、間に合った!」
 白い鳩がゆっくりと翼を広げ、少女の細い腕にとまった。
 まるでマラソンを走り終わったように、彼女は汗だくで、ぴったりと身を包む運動用Tシャツとスポーツレギンスはしとどに濡れ、すらりとした身体に貼り付いている。
 だが残念なことに、それを鑑賞できる幸運な人間はいなかった。
 彼女は息を切らせ、数十キロの遠くに浮かんでいる掌を見て、困ったように首を振った。
 街灯の灯りの下、彼女の影は生きているかのように、ゆっくりと両手を上げた。見えない何かの武器の二振りを抜くように。
 そして、前に向かって振り下ろした。
 静寂が訪れた。
 遠くの轟音、虫の鳴き声、落ちる塵埃、流れる風、沸騰する河、燃え盛る火と堅牢な大地、それらのすべてが停止した。
 見えない力によって凍結されたかのようだ。
 次の瞬間、一筋の見えないほど細い跡が彼女の足元から真っ直ぐに伸び、二十三キロ四百十一メートルを越えた。
 ミリ単位で正確な破壊が訪れた。
 さっくりと、掌は中央から真っ二つに割れ、両側に落下している間にまたすぐに四つに分かれ、その塊がまだ離れている途中で八つに分かれた。
八、十六、三十二、六十四、百二十八、二百五十六……残酷で精密な幾何級数的増加は人類が観測できる限界まで進んでいき、
 ついに、破壊された源質が爆発した。
 すべてが燃えて炎となった。
 剣の一振りを前にして、なす術もなく、ピリオドが打たれた。
 終わった。
「被害者が多くないといいけど」
 彼女が心配そうに溜息をついた時、ポケットの携帯電話がまた鳴った。
「もしもし?もうすぐ着く!さっきは路に迷ったの。本当に迷ったの……そっちの空投が間違ってたんだよ!すぐに、五分で行く……もう、すぐに行くってば……」
 鳩と少女の姿は消えた。
  ※
  ※
「天地大力、神通自在――」
 風災の獣が爆破する時、顔色を青黒くした紅手袋べにてぶくろは、歯の隙間から声を絞り出した。
「――《白帝子はくていし》!」
 ビシッ!
 顔面から破裂音がした。
 ひび割れは広がり、あっという間に、無数の刃で滅多切りにされたように、半身はぐちゃぐちゃな血肉の塊となった。見えない刀は絶え間なく彼の体を切り刻み続け、首から下げられたペンダントが悲鳴を上げた――顔のない小さな人形が粉々に砕け散った。のっぺらぼうの人形は彼の身代わりとなり、白帝子の一撃の余波を受け止めた。
 だが人形も受け止めきれなかった衝撃が紅手袋を襲った。手の中の金魚鉢にひびが入った。二匹の金魚の稚魚は腹を上にして浮かび、いまにも死にそうになっていた。一匹だけが半死半生でゆらめいていたが、見たところ時間の問題だった。
「クソ、あの怪物……」
 紅手袋がグッと半身を屈めて鮮血を吐いた時、遠くから重々しい足音が響いてきた――軍隊が行動を開始したのだ。
紅手袋の目の中に残忍な光が閃いた。紅手袋は懐からスイッチを取り出すと、一気に押した。
 教会の四隅に設置されたプラスチック爆弾がカウントダウンを始めた。これによって、証拠は十五秒後に完全に隠滅されるだろう。
 失敗したところでかまわない。転生の釜さえあれば……
彼は振り返り、説教台に手を伸ばした。だがその手と彼の残忍な笑顔が凍り付いた――説教台の上にはなにもなかった!
 ない!
 転生の釜がない!
 箱がいつのまにか消えてしまった!
 紅手袋は怒り狂って説教台のあちこちを調べたが、箱はどこにも見つからなかった。彼はしゃがれ声で吼えると、狂ったように説教台を放り投げた。だがやはり箱は見つからなかった。
 教会で壊れずに残っていたドアが勢いよく開き、鎮圧部隊が突入してきた。中には壇上に立っている目の赤い背の曲がった男がいるだけだった。
男は唾を吐き、見下げるように兵士たちに向かって中指を立てた。
「クソ、天文会の死にぞこないどもめ!」
 彼は一枚のトランプを投げた。
 トランプは空中で突然半分に折れ、彼の身体を引っ張った。そしてトランプはまた半分に、更に半分に折れ、あっという間に小さな点となり、深い穴の中に吸い込まれて見えなくなった。
 次の瞬間、破壊の光が全てを呑み込んだ。
  ※
  ※
 出血多量は痛くはなかった。
 苦痛さえ感じなかった。
 ただ眠く、全身の力が抜けていた。ぐったりとだるく、何もかもどうでもよかった……ただ眠りたかったし、休みたかった。このクソみたいな人生を終わらせたかった。
 目を閉じて、心安らかに長い苦しみの末に迎える――邪魔されない長い安らかな眠りを味わおうとした。
 死が来る。
 たくさんの死を見た。どの死も違っていた。そして槐詩はついに自分が迎える死を見た。
 怖くはなかった。苦しくもなかった。何ということもなかった。
 ただだるくて朦朧としていた。
 ぼんやりとした意識の中、誰かが自分の身体を推しているのを感じた。力をこめて、前に向かって、少しずつ、かたつむりが石を動かすように。
 槐詩は身体をひっくり返され、ボロボロの絨毯の上に横にされた。誰かが絨毯を引っ張ってどこかへ引きずって行った。
 何かが燃える匂い、壊れる音、そして掠れた唸り声。まるで世界が壊れていくようだった。
 水滴が槐詩の顔に落ちた。
 血の匂いがした。
 精一杯開けた瞼の間から、槐詩かいしは生死不明の柳東黎りゅうとうれいが自分の隣にいるのを見た。そして前方に、絨毯を引っ張りながらよろよろ歩いている男が見えた。
 びっこを引いて歩いている影は、全身でぶつかってドアを押し開けると、振り返った。
 彼の顔は壊れてしまったかのようだった。半分は何の変化もなく死体のように青ざめていて、もう半分は激しく痙攣していた。痙攣は半身に及んでいた。
 まるで彼の半分が死んでしまったかのようだった。まだ生きている半身は全力でもがいているが、治療は不可能に見えた。
 楊は苦心して絨毯で槐詩と柳東黎を巻くと、ぶつぶつと独り言を言いながら力を入れて二人を転がした。
「すまん……俺は女房を助けなきゃならなかった……女房しか助けられなかった……槐詩、すまん……」
 掠れた声の呟きは、謝罪のようだったが、返事を期待している風ではなく、ただの独り言だった。
「本当に……すまない……」
 着信音がした。バッタものの携帯から、能天気なラブソングが聞こえてきた。その歌はダーリンなんとかかんとかという歌だった。電話を取るものはなかった。
「すまん……」
 槐詩の顔に落ちた血は、涙の温度を持っていた。
 槐詩は押され、扉の奥の暗がりに放り込まれ、長い階段を転がって、雑然としたがらくたや瓶詰の漬物を保存している地下室に落ちた。
 勢いよく転がりながら、槐詩は最後に楊の顔を見ようとした。
 楊は扉の枠にもたれ、槐詩を見ていた。ひきつった唇の端は狼狽に持ち上っていたが、それは微笑みに似ていた。
 彼は手にまだ音楽の鳴っているスマホを持ち、槐詩に向かって揺らした。
別れの挨拶のように。
 槐詩は口を開け、呼び止めようとしたが、声が出なかった。
 扉は閉じられた。
 暗闇の中、遠くから爆発の轟音が伝わってきた。恐ろしい光と熱が教会全体を席巻し、最後に残ったすべてが灰塵に帰した。
 槐詩は目を閉じた。
 死が槐詩を抱きしめた。
  ※
  ※
「ある人が、俺に、この、言葉、教えて、くれた……」
 無表情にこわばった男は椅子に縛りつけられ、絶えず神経質に痙攣し、目の中には金魚が活気なく泳いでいる。
「その人が……言った…」
 雑役夫の表情は突然狂気を帯び、獰猛な笑みが現れた。
「――緑日が、最後に世界を照らす」
 パン!
 パン!パン!パン!パン!パン!
 突然の銃声が響く中、彼の頭は撃ち砕かれたが、銃声は止まらず、弾倉ひとつが空になると、また新しいものに換えられ、引き金が引かれ続けた。
 椅子の上のものが肉塊に変わるまで。
 千切れた金魚が空っぽの頭蓋骨から飛び出し、銃弾を受けて一塊の味噌のようになり、すぐに干涸びて一握の粉末になった。
「捕まえた?」
 艾晴がいせいは無表情に手の中の銃を捨て、顔を上げて伝所長の表情を見た。不愉快さを隠そうとしなかった。
「言わなくていいわ。逃げられた、でしょ?」
「奴は短距離を移動できる辺境の遺物を持っていた。だが新海市を出てはいないはずだ……」
「生存者は?」
「捜索中だ」
「捜索を続けて」
 艾晴は視線を戻した。
「地面を掘り返してでも、死体でもいい」
 反対する者はいなかった。
 夜になる頃、崩壊した教会の廃墟を掘る轟音の中から報告の声が聞こえてきた。
「柳東黎と槐詩を発見しました!」
 廃墟の外、車椅子に乗った艾晴は、冷静に言った。
「状態は?」
「柳東黎は生きてますが、重症です。槐詩は……」
 職員は少し詰まり、表情に躊躇いを浮かべた。
「危篤です」
  ※
  ※
 臨時の救護室は既にごった返しており、艾晴は静かにドアの外で待った。耳を澄ますと、室内の混乱の声が聞こえた。
「呼吸は?あるか?」
「ありません!脈拍もなくなりそうです。すぐに注射を……」
「だめだ、心音が弱い……AEDは?AEDを取ってくれ!」
「一、二、三!」
 ボン!
「一、二、三!」
 ボン!
 ……
 しばらくして、音はしなくなった。救護室の医者たちが出てきて、マスクを取った。表情は沈んでいた。
「すみません、あと少し早ければ……」
 艾晴は頷き、何も言わず、彼らが自分の傍を通り過ぎて行くのに任せた。
 艾晴はついに槐詩と会った。
眠っているかのように、少年は手術台に横たわっていた。
 胸の弾痕は蒼白で、既に血は流れていなかった。
 虚ろな目は頭上の無影灯を見ていた。
 心臓は止まっていた。
 艾晴は黙って、俯き、ひじ掛けを指が白くなるほど握りしめた。しばらくして、彼女は冷静に言った。
「それじゃ……手順どおりに」
 艾晴は車椅子を回転させ、去ろうとした。
 だがすぐに、車椅子の動きが突然止まった。
 何かの音を聞いた気がした。

訳者コメント:
ヒロインの一人、白帝子の登場回です。後の回でわかりますが、中学生です。
ルービックキューブより少し大きいぐらいの源質を蓄える箱の名前は『転生の釜』ということが判明しました。いったいどこに消えてしまったのか……
そして、初めて読んだ時「主人公死んじゃった?!」と大変びっくりしました。

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