『天啓予報』第21章 救援

第二十一章 救援

 紅手袋べにてぶくろの持つ試験管の中にあるのは、欠損した体の一部のようだった。
 金属のような皮膚、水晶のような骨、一揃いの指があり、疑問の余地はなかった。それはとある聖骸の一部であり、降臨の依り代となるに十分なものであった。
「これだけ沢山の源質げんしつがあれば、最初の発育には十分足りるだろうな?」
 紅手袋は笑い、箱の中で試験管を割った。
 瞬間、無数のガラス片が飛び散り、空中に消散した。それはもともと物質ではなかった。試験管全体が万物溶解液を凝固して作られた保管容器であり、厳密に内外を隔絶していた。
 空気に触れた瞬間、指の骨は微かに震えた。まるで自由の空気を感知したかのように。
 瞬く間に、箱の中に蓄積されていた源質は底をつき、空になった。つづいて教会から叫び声が響いた。
 すぐに、叫び声はやんだ。
 一面の静寂。
 ただ一滴一滴、水晶のように煌めく源質が浮かび上り、慈雨のようにゆっくりと骨に沁み込んでいく。そして狂おしい息遣いが骨の中から立ち上った。
 それは海の潮のように、四方を席巻した。
 暴風。
 飢餓と邪念の暴風。
 それは狂ったように、貪欲に一切を閉じ込め、荒々しく一切の精神を吸収し、感応したすべての源質を引き込んでいた……老塘鎮ろうとうちんすべての!
 中心の吸引力は、昇華者しょうかしゃもその暴風の中では自分をコントロールすることが難しいほどの強さであった。
 紅手袋は数歩後退した。パキパキという音が聞こえた。それは自分の頭髪が千切れる音だった。
 数本の頭髪が枯草のように、風に吹かれて千切れ、地上に落ちた。
手で顔を触ると、皺の感触があった。
 目の端には、瞬きの間に数十歳老いたように、老人特有の皺とシミが浮き出ていた。
 血肉が指の骨の破裂した場所に萌え出はじめ、骨格が成長し……あっという間に、聖痕は呼び覚まされ、自分から源質を吸い込み始め、急速に完全体を目指して発育し始めた。
 種子は成長してる。
 否、むしろ……復元というべきであろう。

 第一段階・水銀。伝説中の第一の金属。塩、硫黄、水銀の三質で源質の沃土を完成し、万物の礎石とする。
 これにより、聖骸の中に残存している念意は沈黙の中から蘇生し、見知らぬ世界にぼんやりとした一瞥を投げかけた。

 第二段階・黄金。特性が発覚し、属性が満ち、源質が純粋化されたのち、太陽のように輝く炎となる。
 その炎は青白いだけではなく、氷のように冷たく、すべてが千百年も風化してしまったようである。
 燃え尽きて灰となる。

 そして第三段階・エーテル。凡物を超越する路。
 朽ちた形骸は再び束縛されない恐怖の光芒となり、常識を越えた威力をその中に醸造し、神の力の種子を撒いたごとく、本来持っていた超然とした地位を取り戻し、全力でもがき、物理法則の束縛を脱する。
 龍の逆鱗、鳳凰の尾、メデューサの眼、天使の羽根や悪魔の角のように。
もう常識には縛られない。

 最後は第四段階・アンチモン。
 手の骨は今、たおやかな白皙の掌となり、虚空に向かって伸び、匠が心血を注いで彫り上げたように、細部に至るまで完璧であった。
 既に昇華は完成し、凡俗を超越し、すでに凡人の触れることができないものになった!
 神話まで、あと一歩の距離である。

 いま、遠方から伝わる轟音が、地を山を揺らし、ゆっくりと老塘鎮をその中に封じ込めていき、ついに外部から隔絶した。
 掌の生長は突然止まった。
 本来の状態を回復するための、源質の供給は絶たれた。
感応したかのように、教会の外の漆黒の空、虚空の中に遺憾の溜息が伝わった。
 紅手袋は顔色を変え、懐から深度測定器を取り出すと、急速に変化する数字を見た……あっという間に辺境度数が六〇%に達した……
 この場所は天文会によって現境から剥離されようとしている!
 あとほんの少し。
 あと数十秒で、聖骸は第五段階・賢者の石にまで回復し、現世の奇跡となるところだったのに!
 しかし、第四段階と第五段階の間にある深淵は、もう超えることはできない。
 遅かった!
「ありえない……いったいなぜ阻まれた。どうして察知された?」
 紅手袋は愕然とし、重苦しく項垂れてぶつぶつと呟いたが、自分の計画の どこに綻びがあったのかまったくわからなかった。もしや王海には自分が調べきれなかった秘密があったのか?
 紅手袋は風の中を流れ去る声を聞いた。
 風に乗って伝わる微かな声を。
「考えても仕方がない、掌ひとつあれば、十分だ」
 言うと、その手は後ろを指さし、紅手袋に下がるよう促した。
 次の瞬間、掌は伸ばした二本の指を教会の上方に向かって振った。布を引き裂くような音がした。
 暴風が吹きすさんだ。
 吹き過ぎた場所は、煉瓦が塵となり、梁木は朽ちて砕け、狂風によって空に巻き上げられた。
 掌はゆっくりと起き上がり、天地の間で、拳を握った。
 一陣の鋭い音が聞こえ、ぐらぐらと揺れていた世界は突然静止し、まるで回転していた心棒が突然握り押さえられて止められたようだった。現境剥離プログラムは、突然止まった。
 まるですべての空間が風の中に凝固したかのようだった。
 突然、遠方から轟音が伝わってきた。
  ※
「非法の越境を測定した。霊魂印の照合完成、脅威等級を上方修正――」
 それが出現してすぐ、艾晴のスマホに衛星からの警報が届き、その掌の正体を確定した。
「テロ組織『緑日』所属の昇華者――『十災』第四位の風災、脅威レベルA、災害警報発出完了」
 さっきまでは艾晴がいせいの報告に対して、明らかに慄きと反発の空気が゜室内に満ちていたが、いまは全員が安堵し、思わず内心で彼女の独断行為に感謝していた。
 だが艾晴の顔色はますます悪く、黙々と手の中の通信機を弄んでいた。
 槐詩たちから撤退の連絡が来ていない。
「チッ……」
 彼女は煩わしそうに眉を顰め、もう遠慮はせず、顔を上げて質問した。
「あなたたちは何をボーッとしているの?なんの準備もしていなかったの?」
 伝所長と艾晴から同時に確認の許可を得ると、十秒もしないうちに、遠方から轟音が響いてきた。
 雷鳴のような音はあちこちから聞こえてきて、大地を震わせた。
封鎖圏の外から三キロメートルに位置する高い岡の上では、絶え間なく土煙が立ち上り、鼻を刺す硝煙の匂いとともに地震のような揺れが広がっていった。
 鋼鉄の巨獣は大地に伏せ、照明に照らされて冷たい光を反射している。
指令部の命令に従って巨大な台座が展開し、大地の中に楔を打ち込んだような、重々しい砲身がゆっくりと起き上がって斜めになり、空に向かって照準を合わせた。
 距離測定完了。
 着弾点計算完了。
 そして、閃光が爆発した!
 長らく待機していた十一基のカノン砲が轟音を発した。それらは殺人的な鋭い光を空に投影し、教会を何十回も破壊できるほどの恐ろしい力が空から降り注いだ。
 掌は急襲を感知し、指先をゆっくりともたげ、振った。
 竜巻が起こり、鉄の色は暴風の中で発光し、激しい爆発音がぶつかり合った。鋭い音が響き、無数の火花が出現した。
 鉄片を巻き込んだ竜巻の中、砲弾の半数は風圧に砕かれた。小指を微かに一振りすると、竜巻は内側に向かって崩れ落ちるように収縮し、残り半分の 砲弾が一か所に集まった。
 次の瞬間、灼熱の炎が空中で爆発した。
 光は、無傷の掌を照らした。
 つづいて二回目の砲撃が行われ、砲弾が空から降って来た!
「――よし、続けろ。火力で抑え込むんだ」
 指令室内で、伝所長は奮い立った。まったく士気は下がっていなかった。
風災の手の反撃は、それが正面から爆発を受けられないことを証明している  ――でなければ、こんな時間の浪費をするはずがない。
 現境は常人が守るものであり、世界の基盤には厳密な規則がある。『天敵』の段階に達した者以外は、絶対に物理法則と正面衝突をすることはできない。
 火力さえ充分なら、軍隊の包囲の下、墜落できないものはない。
「残念。ミサイルがあればよかったのに……」
 艾晴が残念そうに溜息をついた時、伝所長のうれしそうな声が聞こえた。
「上層部からの現境増援が出発したそうだ!」
 艾晴は安堵し、それからすぐに微妙な気持になった。現在の現境の守護者は……頼りなかったような?
 同僚から聞いた噂を思い出して、艾晴の心はまたすぐに沈んだ。
十六台のカノン砲が狂ったように砲撃する中、掌は反撃を続けた。
 封鎖区域内で二つの力は拮抗していたが、掌が少しずつ降下してきた。
制圧されつつある。
 教会は殆ど倒壊しており、残念ながら生存者を確認することは出来なかった。
 これも想定内のこと。
 風災獣と呼ばれる異化者は人間の源質を抽出し、燃料とすることに長けている。おそらく教会の中は、いや、老塘鎮全体がすでに……
 この短時間で、司令部の中の空気はだんだんと重くなっていった。
 彩虹橋ビフロストを利用した『空中投下』によって現境に増援が到着するまでの時間は三分もかからないはずだ。待っている時間は長かったが、増援の現境守護者が送ってきたメールは、指令本部の者たちを慰めていた。
『もう出発した!』
『もうすぐ。いま途中』
『あと一分で着く!』
 数分おきにメールは送られてくるが、最初に皆が抱いていた希望は、後には、すっかり失せてしまった。
 ついに、砲撃隊から悪い知らせが届いた。
 弾薬が尽きた。
『少し渋滞してる!すぐに着く!』
 ショートメールの通知音がした時、黒く煤けた掌は猛然と振りかぶり、敢然と現境剥離の力を攻撃しようと、五指を握り込んだ。暴風が集まり、老塘鎮全体を封鎖した鉄柵は夕陽に照らされている。
 次の瞬間。
 ゴォン!
 大地が揺れた。
 強い風の音の中、封鎖の見えない壁が振動した。鉄柵が音を立て、根の部分の地面が揺れ、亀裂が走った。
 封鎖が緩んだ。
 掌に一筋の傷がついた。だがそれはまったく気にせずに、再び持ち上がると、殴りつけた!
 ゴォン!
 鉄の囲いに、一筋の亀裂が生まれ、金属が悲鳴を上げた。
 臨時指令本部の中の全員が顔色を蒼白にしている。応援はまだ遠く、ただ短いメッセージだけが届いた。
『持ちこたえて!角を曲がったらすぐ!』
ゴォン!
 拳は再び殴った。
 鉄柵の亀裂が更に広がり、致命的な穴が空いた。
 風災獣が籠を破って外に出た!

訳者コメント:
風災獣という新たなキャラと、彩虹橋という新たな設定が出てきました。みなさん、大丈夫ですか?ついてきてますか?この章では、昇華者の段階が説明されていますが、これは錬金術な詳しい方なら「おお!そうきたか!」というところなのです。私は日訳のために錬金術に調べましたが、『図解 錬金術 (F‐Files No.004)』という本が入門書としてよかったです。
この章に出て来る「万物溶解液」というのも、ちゃんと錬金術の歴史の中に存在しております。
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