『天啓予報』第38章 城門と堀の魚

第三十八章 城門と堀の魚

 一般的な教授のイメージは、文質彬彬ぶんしつひんぴんとした痩せ型か、または白髪で眼鏡をかけ本の匂いを纏っているというものだが……
 二メールと以上もある肉塊は、そのどちらに当てはまらないだろう。
 この山のような肉塊は、艾晴がいせいに向かってにこにこと笑っていた。顔はてかてかと眩しく、手は休みなく精巧な器具を操って慣れた手つきで珈琲を淹れている。
「コーヒー、それとも紅茶?」
「コーヒーを」艾晴は言った。「砂糖なしで」
 すぐに、精緻なカップに注がれた熱々のコーヒーが、艾晴の前のソーサーに置かれた。
 教授は驚くほど巨大な回転椅子を回転させ、傍の冷蔵庫を開けると、次々と各種の精巧な菓子類を取り出した。ケーキ、プリン、チョコレート、マカロン、ローマ風ミルフィーユ…
「ちょうど晩御飯の時間です。一緒にどうぞ」
 教授は笑ってナプキンを広げ、フォークとナイフを手にした。
「最近ダイエットをしているので、夜は肉を食べないようにしているんです」
 艾晴はテーブルいっぱいに並べられたカロリーを見て、珍しく興味を示したが、すぐに残念そうに頭を振って断った。
「そのうちコレステロール過多で死ぬわよ」
「脳血栓なら、何度かやりました」
 教授はははと笑って手を挙げ、頭の手術痕を撫でた。
「天文会の医療技術のおかげで、この趣味を続けられる」
「私にお世辞を言っても無駄よ、私は着任したばかりの新米なんだから」
 艾晴はコーヒーを一口飲むと、満足げに頷いた。
 認めたくなくても、教授が淹れるコーヒーは新海市のどこよりも美味しい。我が家にも高価なコーヒー豆はあるが、コーヒーを淹れる技術はこいつには敵わない。
「こんなときに着任を?あなたも大変ですね――」
 教授は眉を僅かに顰めた。
龍三角ドラゴン・トライアングルの戦争は、新海に影響を及ぼしているのですか?」
「多少は」
 艾晴はテーブルをコツコツと叩いて、溜息をついた。
まさに「城門失火してわざわい池魚に及ぶ」〔城門に火事が起きれば堀の水をくみ上げて消火し,堀の水が枯れると災いが堀の魚に及ぶ。思わぬ巻き添えを食うこと〕の典型だ。
 世界最大の巨大組織、天文会の権限は小さくはない。それは連合国という組織の暗黒面である。
 九十年前、辺境の脅威に対抗するため、東夏、ローマ、ロシア、アメリカ共同体、エジプト第一王朝の五大連合国が常任理事として共同参与し、国際天文会が成立した。
 現在の天文会の統治機構である『統括局』は、各国の政界を壟断する集団によって構成されている。
 第一次世界大戦は全ての戦争を終結させるための戦争と呼ばれた――
 それ以降、世界規模の戦争は起きてないが、それは戦争がなくなったということではなく、見えない場所に移っただけである。統括局内部の権力闘争として。
 この数年、辺境領域にある国と所属機構が、辺境の主導的開発権を有していることは黙認されている――辺境はその名の通り、現境の周辺に存在しているだけでなく、主権が希薄な土地である。
 実は特殊な状況下で、それらは移動し得る……
 この数年、邪馬台帝国の遺跡――『龍三角』という辺境をめぐって、瀛洲えいしゅう内部では天津あまつ系代表の公家と国津くにつ系代表の武家の闘争が続いており、それは流血を伴う事態に発展しただけでなく、辺境の主権は国内の首相よりもたやすく交替し、戦いが続いた結果、辺境を固定している界楔が壊された……
 界楔が壊された!
 わざとか?
 天文会の観測によれば、龍三角は既に漂移を始め、まずオーストラリア諸島の方向へ漂った後、西北方面に向かうという……
そう、東夏とうかに向かって漂っている。
 これは東夏にとって願ってもないことであり、辺境開発集団・太清重工は既に急いで方策を取り始め、この肉を鍋に淹れるのを待っている。
 いま艾晴を悩ませているのは、もし東夏が龍三角の開発に乗り出したならば、新海市が一番便利な海への出入口となるだろうことである。
 それはつまり、金を稼ぎたい、財宝を奪いたい、不正な利益を得たいという、トラブルの種となる昇華者しょうかしゃたちが集まってくるということだ。
 昇華者による犯罪数が上昇し、それによって辺境間相互の引力が高まること――
 万一、龍三角の邪馬台辺境が東夏沿海にぶつかり、同化したら?
 彗星が地球にぶつかった方がどんなにましか!
 当然、心配しているのは彼女一人ではないが、なにかあれば責任を取らされる立場の一人である。いま正式に天文会の監察官に着任したのは、実にタイミングが悪かった。
 もし保身を考えるならば、急いで半年以内に異動をすることである。
 辺境が漂流する速度は早くはないが、いまの勢いで行くと、遅くとも一年後には、新海周辺に大混乱が起こっているだろう。
「どこかに相談しました?あなたの後ろ盾を頼れば、難しいことはないでしょう?」
 艾晴はちらりと教授を見たが、何も言わなかった。
「好奇心です、純粋な」
 教授は笑った。風が吹き過ぎた後のように、テーブルの上のスイーツは彼が既に半分以上食べてしまった。砂糖をたくさん入れたせいで糊のようになったコーヒーも既に彼の腹の中に収まっていた。
 彼は唇を拭き拭き、テーブルの下から取り出した厚いファイルを艾晴の前に置いた。
「ご依頼の、帰浄の民に関する調査報告です」
 静寂の中、ページをめくる音だけが響いた。教授は邪魔をせず、回転椅子の方向を変え、机の上ににある難しい本を捲り出した。
 救主会は艾晴の想像以上に奥が深かった。
 どう見ても詐欺集団であるが、奇妙な点が多すぎる。あの辺境の遺物の来歴はもちろん、彼らとひそかに通じている昇華者たち……
 王海おうかいがその座に就く前は、救主会は違う名で、別の人間が首領の座についていた形跡があった。
 救主会が密かに老塘鎮で育っていたのは間違いない。救主会の勢力が、新海に止まらず、その他の地方に伸びている様子は、「三教九流はどこにでも行く」という通りである。もし紅手袋べにてぶくろが強引な手段でこのいんちきな宗教団体を利用しなかったなら、いつまでも気づかれずに農村と辺鄙な町の下層階級に潜んで成長を続けていただろう。
 巨大な組織の下部会員と弾除けのようである。
 いったいどこまで手を伸ばしているのだろう?
 疑問は多かった。
 天竺の黒天教団?辺境の至福楽土?アメリカの科学神霊会?それとも瀛洲の八百万牛鬼蛇神?
 だが惜しいことに、詳細を知っている王海とぬえは既に死んだ。 艾晴は砂漠で針を探すように調査を開始した。
 槐詩に殺された紅手袋とその背後の辺境最大のテロ組織緑日ろくじつはもうなんの悪だくみもしていない。
 辺境の力は結局のところ辺境のもので、現境で何かしようとしても、世界中を覆う天文会の目を避けて通れるものではない。
 老人の源質げんしつを吸い上げている救主会のバカどもは、いったい何を企んでいるのか?成し遂げたのか?まだ途中なのか?他に仲間はいるのか?
 王海という詐欺師崩れが博愛公益を利用して新海の上層部に食い込んでいたということが信じられなかった。
 書類だけ見れば、王海は年金を騙し取るようなケチな詐欺師である。
背後で誰が糸を引いているのか?
 艾晴の思考は電話のベルに断ち切られた。
 電話の応対を済ませると、もう考える気もなくなっていた。
「初期報告はここまでね」
 艾晴はデスクの上のファイルをしまった。
「残りの報酬は振り込んでおく。救主会の調査は継続して。なにか新しい情報が出たら連絡を」
「ええ、お任せください」
 教授はコーヒーを飲み、艾晴の表情を見た。
「また浸食物や昇華者犯罪が?」
「いいえ、もっと困ったことよ」
 艾晴は無表情で車椅子のひじ掛けをこつこつと叩くと、電話での槐詩の話を思い出し、思わず溜息をついた。
「――もっともっと困ったこと」

訳者コメント:
天津神(あまつかみ)・国津神(くにつかみ)については、恥ずかしながら、私は翻訳するまで知りませんでした。作者は日本人の私よりずっと日本の歴史に詳しいです……

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