『天啓予報』第12章 ホスト業は柘榴の味
第十二章 ホスト業は柘榴の味
特事所の事務室は、静かだった。
「わからない?」
車椅子の艾晴は事務机の奥で汗を流している男を見た。
「たった二人の人間の身元がわからない、そういうこと?」
「しょうがないんだ。監視カメラの写真は数枚だけ、しかも正面向きのものはなく、マスクもしてて、奴らがいったいどこから来たのかもわからない。それに……」
伝所長は机の上の、椅子に縛られた犯人の写真を見ながら、男の鼻や顎を指さして言った。
「明らかに整形の跡がある。すぐには照合できない」
「世の中簡単なことだけだったら、平和なのにね」
艾晴は机の上のビニール袋に入った白い粉末を指さした。
「こっちは?新しい手がかりはあった?」
「それが……」
伝所長は言いかけてやめた。
「ああ、そう」
艾晴は失望したようだった。
「もし新海で手に余るようであれば、天文会に報告するしかないけど……」
「いや、そういう意味じゃない」
伝所長は慌てて手を振って否定したが、そもそも何か有望な考えがあってのことではなかった。
「我々特事所も協力したくないわけじゃないんだが、源質が混合された麻薬は多く出回っていて、出所を掴むのは難しいんだ」
「へえ?」
艾晴は眉をひそめた。
伝所長は訴えた。
「人体に影響を与える主要な成分は源質で、殆どが辺境の遺物から作られたものだ。しかも成分を変化させるのは簡単で、わかっているだけでも数十種類以上が市場で流通している。もし天文会が禁止薬物のデータを公開したなら、数十万種類以上になるかもしれない。
結局のところ、昇華者と地獄の産物が通常では計れない力を持っているのに対して、我々は常人は本当に無力なんだ」
伝所長は汗を拭いながら、全面的に敗北を認めた。
「能力もないのに、なぜ足を引っ張るようなことをするの?」
艾晴は失望を露わにした視線をおさめ、その場を離れようとした。伝所長はホッとした。
だがドアのところまで来ると、艾晴は振り返り、唐突に尋ねた。
「できないことが多すぎる。役に立たないなら、辞職すべきではない?」
「……ええ、そのとおりです」
伝所長はぐっとこらえて無理矢理笑顔を作った。
「我々は全力で取り組みます」
「それならいいわ」
ドアが閉じた。
伝所長ははるかに高い地位にある艾晴を腹の中でくそみそに罵倒し、心の中の閻魔帳に書きつけた。
※
※
「ミュージック!」
灯りが淡く煌めくボックス席では、ソファで二人の人影が寄り添い、ひそひそと甘い言葉を交わしていたが、そのうちの一人が手を上げ、パチンと指を鳴らした。
すると、隅の方で、表情を失った槐詩がロボットのようにチェロを弾き始めた。
傍に置いてあるリュックの中では、運命の書が自動的に記録していた。
『柳東黎と出勤一日目。チェロを弾かされる。この恨みは忘れない。』
そう、槐詩の臨時ホスト初日である。
生活のため、チェロ演奏家は柳東黎専用のBGM演奏機になった。ユニットデビューし、一人は身を売り、一人は芸を売る。髪にパーマをかけ、Vネックのジャケットを着たホストの大スターの地位は目前である……そんなバカな!
他の人間は護衛の方がくっついていて来るのに、どうして俺は護衛にくっついているんだ?
同じ家に寝起きするのはいいとして、なぜ同伴出勤なんだ!
もし生命の危険と艾晴が払う日当八百元がなかったら、槐詩はとっくに投げ出していただろう。
事件が解決する前に、ホストといっしょくたにされてしまうことを今の槐詩は恐れていた。
槐詩の望みは多くなかった。こいつを後ろから刺してやりたい。
事件さえ解決したら、お互いそれぞれの道を行き、何もなかったことにしよう。一生なんの関わりも持たないようにする。それがいちばんいい。
あのアホガラスも葬った後、新しい人生を始めるのだ。開花したチェロの才能で人生の高みを目指し、美女と結婚し、自分は金のなる木となり、死んだ後は数多の英雄のように美少女となってガチャのカードとなりたい……
とりとめもない妄想の中、槐詩の耳は敏感にくぐもった泣き声を拾った。 それは柳東黎のいるボックス席の方から聞こえてきた。
アルコールと悲し気なチェロの音色の中、柳東黎の胸に寄りかかった女性は悲しみに耐えきれず、声を出して泣きながら柳東黎の手を握りしめていた。
「心の中で、ずっと息子のように思っていたの。ごめんなさい、騙していて。もし息子が生きていたら、あなたと同じぐらいの歳……」
槐詩がこっそりと笑う視線の先、柳東黎の営業スマイルもこわばっていた。
ようやく客を正面ドアまで送って戻って来きた柳東黎を、槐詩の嘲りの視線が出迎えた。
「へへへ――」
槐詩は柳東黎をジロジロと眺めて、心から感嘆して言った。
「これが伝説のホストの醍醐味か?」
「何が醍醐だ!」
柳東黎はジロリと睨んだ。
「殆ど柘榴の味だ!何度も寝てやったのに、息子だって!」
「やれやれ。こういう時は寂しい女性に温りを与えたとか何とか、そういうことを言うもんじゃないのか?そして俺はホストに対する偏見を改めるという……」
「お前のここは大丈夫か?」
柳東黎は横目で槐詩を見て、自分の頭を指さした。
「もっと言えば、ホストの仕事は笑顔と体を売るだけだ、どこにそんな高尚なものがある?」
「けっこう楽しくやってるように見えるけど」
槐詩はハッとし、再び憐憫の目で見た。
「年増が好きなのか?」
「チッ!」
柳東黎は軽蔑の眼差しを槐詩に向けて言った。
「俺もお前と同じような貧乏人だと思ったか?ホストになる前、俺はこの顔で稼いでたんだ。たった数日で数千万元……」
槐詩は淡々と続きを促した。
「おお、それから?」
「……それから、逮捕された」
柳東黎はあっさりと言った
「艾晴が俺を逮捕した。顔で女を騙すのが好きならいっそホストになれってさ!あの女の下で天文会の仕事をしながら、騙し取った金額を返し終わった時、俺は自由の身になれる……」
槐詩は驚いた。
「それで本当にホストになったのか?」
「ならなきゃどうなる?辺境送りだぞ?俺の能力は人間以外にはまったく効かないんだ。辺境じゃすぐに死んじまう」
柳東黎は鬱屈した様子で煙草を咥えた。
「銃口を口に入れられて、頭を横に振れるか?漏らすかと思ったぜ!」
槐詩は好奇心から、顔を近づけて小声で尋ねた。
「その時、自分の霊魂技能を使わなかったのか?」
柳東黎の表情はますますしおれて元気がなくなり、しばらくしてやっと口を開いた。
「魅惑して、魅惑しなかった」
「いったいどっちなんだ!」
「使ったけど、何の効果もなかった」
柳東黎は屈折した様子で首を振った。
「それからずっと考えてるんだ。俺の能力は作用したはずた。その時俺は逃げようと必死で、いつもの十倍もの力を出したんだ!彼女はきっと狂ったように俺を愛してしまった。そしてそんな自分を許せなかったんだ……
可笑しいだろう?艾晴という名前なのに、愛情は彼女にとって一銭の価値も持たないのさ」
槐詩は数日前に会った女性と今の話を思い合わせ、驚いた。
「人間をメカゴジラのように言わなくたって」
「冗談か?彼女は天文会新海支部のナンバーワンだ、昇華者にとっては自分の命を握る監察官だ。ゴジラと比べたらゴジラが可哀想だ。死にたかったら彼女を怒らせろ。悲惨な死に方ができるぞ!」
二人は話しながら、クラブを出て、街を歩いた。どこかで飯を食おうという話になった。柳東黎が奢ると言った。実際槐詩の出す素麺には耐えられないとこぼした。
「これ以上肉を食べなかったら、腹が自分自身を消化してしまう……」柳東黎は自分の腹をさすった。「鍋を食いにいかないか?」
槐詩はちらと柳東黎を見ると、重苦しそうに言った。
「鍋を沢山食べるとお尻が痛くなるって聞いた」
柳東黎はぽかんとして、それからくどくどとバカなことを言っている槐詩をたまらず蹴り上げた。
結局嫌がる槐詩を無理やり連れていくことは諦め、簡単に麺を食べると帰途に就いた。柳東黎は歩くのを嫌がり、明日は車を運転してくるとぶつぶつ言った。
「おい、もう十二時だ」
槐詩は歩きながら、たまらずあくびをした。
「もっと早く退社できないのか?俺は今年十七歳でまだ伸び盛りなんだ!」
「もう成長期は終わっただろう。どこまで伸びる気だ?それに、昼間に働くホストがどこにいる?お前のせいで俺は早上がりだ」
言いながら、柳東黎は指を擦るジェスチャーをし、槐詩に自分が夜働いたらどれだけ稼げるかを暗示した。
槐詩は急に不思議そうな顔をして柳東黎をしばらく見ると、突然質問した。
「俺は人を更生させているのか?」
「……アホか!」
歩きながら無駄口を叩いていた時、槐詩は不意に鳥の羽音を聞いた。
黒いカラスが目の前の樹にとまり、振り返って槐詩を見た。
槐詩は突如悪寒を覚えた。
烏鴉に促されるがまま、槐詩は振り向いて後ろを見た。
郊区の静かな路の行き止まりは、暗い外套の灯りに照らされている。その下の消火栓の上に、声もなく蹲る影があった。
奇妙な猿の仮面をつけた頭がゆっくりと持ち上がる。
虚ろな目が槐詩と柳東黎を見た。
……ついに、来た!
殆ど一瞬の反応だった。柳東黎は左手で槐詩をかばいながら右手に持った自分のバッグを槐詩の胸に押し付けた。
柳東黎が右手で胸のホルスターから銃を抜いた。
二人は急いで後ずさった。
同時に、鋭い金属音が凶猿の足元から響いてきた。
両手の鋭い爪に力がゆっくりと籠められ、消火栓がまるで紙のように引き裂かれた。凶猿が槐詩たちに向かってジャンプすると同時に、消火栓が壊れて水が噴き出した。
槐詩は恐怖の中にありながら幸運を感じていた。相手がこの場所で襲撃してくれてよかった。
もう少し先だったら街灯がなかった……暗闇の中では柳東黎は能力を発揮しようがない。
槐詩がいくらも後ずさらないうちに、凶猿は空を切って飛ぶように接近し、あと十歩という距離まで迫ってきた。
柳東黎は、既に街灯の真下に立っていた。
彼は前髪を掻き上げると、凶猿に向かって歯を見せて微笑んだ。
瞬間、槐詩の理解できない力が発動し、柳東黎がなまめかしく微笑む顔が、凶猿の瞳に映った。
次の瞬間、凶猿の動きが硬くなり、地面に倒れ――
ピクリとも動かなくなった。
呼吸困難に陥っていた。
柳東黎は気を緩めず、銃の狙いを定めると引き金を引いた。
轟音の中、あたりが突然暗くなった。
街灯がチカチカと明滅していた。
槐詩は狼狽えて辺りを見回した。
消火栓の近く、むき出しになった配電箱から煙が出ていた。
水柱が吹き出している下で、狂ったように火花が爆ぜ、煙が立ち上り、それに伴なって街灯が瞬き、ついに大きな爆発音がした。
街灯の灯りは完全に消えた。
クソ!行政はどうして手抜き工事を放置してるんだ!
訳註:
・「艾晴という名前なのに、愛情は彼女にとって一銭の価値も持たないのさ」」……結局このように訳しました。中国語ではほぼ同じ発音なのです。ちなみに槐詩(ホワイシー)は坏事(ホワイシー)(よくないこと)と発音が通じています。名前からして不幸を背負ったキャラだとわかるわけですね。
・指を擦るジェスチャー……中国でお金を表すハンドサイン。日本と同じように親指と人差し指で丸を作るハンドサインも使われます。
・「鍋を沢山食べるとお尻が痛くなるって聞いた」……多分辛い鍋のことを言っているのでしょう。
訳者コメント:
槐詩と柳東黎の掛け合い本当に好き……