『天啓予報』第37章 すまない

第三十七章 すまない

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 尾行者ストーカーの頭に山ほどのはてなマークが浮かんだ。彼はスマホを取り出しメッセージを送ると、暇そうな様子を装って建物に入り、十五元を払ってカードキーをもらい、更衣室のドアを開けた。
 熱く湿った空気が顔を打った。
 何列もの棚の間を、裸の男たちが行ったり来たりしながら着替えている。だが更衣室に槐詩かいしはいなかった。男は浴場に通じるビニールの暖簾が動いているのを見た。ついさっき誰かが出入りしたようだ。
 困惑と焦燥を抑えながら、男はロッカーを開けると服を脱いで真っ裸になり、浴場に向かった。
 ビニールの暖簾を開くと、顔を打つ湿った空気の中に、無表情な少年が見えた。少年は上から下まできちんと服を着ていた。
 男は呆気にとられた。
 なんだ?
「なぜ俺を尾ける?」
 槐詩は単刀直入に尋ねた。
「……何を言ってるんだ?」
 筋肉男は顔をひきつらせた。男は疑問を圧し殺しつつ、まったく意味が分からないというように、煩そうに手を振った。
「どいてくれないか?」
「すまん、できない」
 槐詩は溜息をつくと、足を前に踏み出した。
 ガッ!
 尾行者は拳が自分の顔を殴る重い音を聞いた。それから目の前が暗くなり、足が滑り、仰向けにひっくり返った。
「聞いてるんだ――」
 槐詩はそばにしゃがみ込んで男の顔を見ると、もう一度尋ねた。
「なぜ俺を尾ける?」
「チクショウ……」
 筋肉男は怒り、腕を上げて槐詩の横っ面を打とうとしたが、途端にまた目の前が暗くなった。
 槐詩渾身の一撃。
 ドン!
 服を着替えている人々の驚きの視線の中、槐詩は手を伸ばし、男の髪を掴んで頭を引っ張り上げると、乱暴に男の頭をロッカーに叩きつけた。
 一度、二度、三度!
 薄い鉄のロッカーに大きなへこみができた。男は全力でもがいたが槐詩の手から逃れることはできなかった。
 もう一度、槐詩は尋ねた。
「――なぜ俺を尾ける!」
「なんのことだ!」
 激痛をこらえながら、尾行者は大声で罵り、掴まれた髪が抜けるのも構わず思い切り足を上げて槐詩を蹴ろうとした。
 蹴りげた脚は空を切ったが、男の髪を掴む槐詩の手が離れた。瞬間、男は床から立ち上がった。
 だが反撃はせず、尾行者は更衣室の出口に向かってまっしぐらに駆け出した。
 バンと音がして、尾行者は安っぽい合板のドアにぶつかり、門の取っ手の長いスプリングに引っかかり、血の跡がついた。
 男は危うくカウンターに激突するところだった。
 カウンターの女将が大声で叫ぶ中、男はカウンターに置いてある入浴かごを掴み、追ってきた少年に投げつけ、そしてタオル一枚もつけずに、建物のの外に飛び出して全力疾走した……
 槐詩は後を追った。
 攻守交替。
 サンダルも履いていない尾行者は真っ裸で往来を走り、槐詩はその後をぴったりと追って走っている。
 裸足で走る痛みも忘れ、男は股間のおかしなものを振りながら、路上の女性たちの叫び声を受けつつ、脱走した野良犬のように走っている。
 プライドと引き換えに力を得たのか、それとも何十台ものスマホに撮影されながら自我を手放していないのか、男のスピードは一段と速くなり、槐詩はすぐには追いつけなかった。
 男はついに走れなくなって、槐詩に路地に追い込まれ、息を切らせて後ずさったが、行き止まりであった。
「なぜ俺を尾ける?」
 槐詩は袋小路の出口に立って、冷静に男を見た。
「さっさと答えろ。それとも力ずくで答えを言わされたいか?」
「わからん……」裸の尾行者は塀に寄りかかり、息を切らせながら言った。「お前が何を言っているのか……」
「二つ目を選んだようだな」
 槐詩は沈黙していたが、顔を上げて男を見た。
「本当は、こんなことはしたくないんだ」
 指を鳴らすポキポキという音が路地に響いた。
 つづいて、黒い影があっという間に尾行者の眼前に迫った。尾行者の体の下で路上の石畳みが陥没し、その下から悪臭を放つ汚水が噴出した。
 ドン!
 尾行者は体をくの字に曲げた。まるで内臓が口から飛び出しそうな感じがした。裸の両足は地面を離れ、顔をかばった両腕は激しい衝撃に両側に開いていた。
 男が体制を立て直す前に、槐詩は拳を開き、掌底で男の顔を打った。前へ、前へ、さらに前へ……ドン!、
 男の頭が壁にぶつかった。
 男は無意識に背を屈めた。股間がヒヤリとた。自分の両足の間で何かが踏まれた。
 叫び声が響いた。
 槐詩は足を離した。
 男の眼球は頭から飛び出しそうだった。
 激痛の中、男の表情は獰猛になった。男は地面に落ちていた酒瓶を拾って割ると、槐詩の喉に向かって突き出した。
「死ね!」
 男は腕に痛みを感じた。腕が奇妙な角度で曲がっていて、酒瓶は自分の太腿に突き刺さり、血がどくどくと流れ出ていた。
 腕と太腿の痛みが男を襲った。
 男は恐怖に叫び、それから一本の腕が自分の喉を押さえつけていることに気づいた。手は男を引っ張り上げ、塀に押し付けた。槐詩は男のゆがんだ顔を見て、怒りの滲む声で質問した。
「――なぜ俺を尾ける!」
 静寂は突然来た。 
 尾行者は突然もがくのをやめ、槐詩の激怒する様子を見て、笑った。
 尾行者は引きつった顔に、バカにしているのか機嫌を取ろうとしているのかわからない笑みを浮かべていた。
 男の唇は震え、なかなか開こうとしなかった。
「金が……ほしくて……」
 槐詩は沈黙し、袖がほつれかけている自分の古いスーツを見た。それから底のはがれかけている革靴を。槐詩はなんとかその言葉を信じようとし、最後に、彼のまなざしは穏やかになった。
 槐詩はゆっくりと手を離し、男が地面に倒れるに任せた。男は息を切らせ、咳込み、痛みに痙攣していた。
「そうか」
 槐詩はふいに言った。
「いいものをやる」
 男が顔を上げた瞬間、槐詩は手を伸ばし、男の顔を押さえつけ――それから、高価な劫灰こうかいを男の口に押し込んだ。
 男は叫び、全身を痙攣させると、傷が地面に擦れけるのも構わずもがいた。
 言葉にできない恐怖と悲しみが男の体に入り込み、その魂を蹂躙した。だが意味をなさない叫びは槐詩の手に抑え込まれ、発せられることはなかった。
 突然、路地の入口で車の急ブレーキの音がした。一台のバンのドアが開き、マスクをした男たちが次々と降りてきて路地の入口を塞いだ。
 彼らは手をポケットに突っ込み、一言も発せず、悪意に満ちた視線で少年を見ている。
 静寂の中、槐詩は尾行者を押さえつけていた手を緩め、ゆっくりと振り返り、招かざる客たちを見て、男がどうしてこの場所に駆け込んだかを理解した。
「こいつだ!」
 地面に這いつくばって痙攣している尾行者は槐詩を指さした。一番手前の男が緑色の縄を巻き付けた山刀を取り出すと、他の男たちも次々と禁止されている刃物類を取り出した。
 槐詩は驚き、眉を跳ね上げた。
「誰か説明してくれないか?」槐詩は尋ねた。「車の修理工が禁制の刀を持っている理由を?」
 槐詩の背後で下卑た笑い声がした。
「ある人が……金で……お前の命を……」
 男は激しく咳込みながら、片手で体を支え、歪んだ笑いを顔に浮かべた。
「わかったら、おとなしくしろ……」
 槐詩は黙り、足を上げると、猛然と男の頭を踏みつけた。
ガッ!
 男は地面に倒れ、動かなくなった。
 槐詩は振り向き、何人かのチンピラたちが近づいてくるのを見て、思わず溜息をついた。
「どうやら、話し合いはできそうにないな?」
 誰も答えなかった。
 静寂の中、槐詩は手を挙げ、上着のボタンを外すと、年季の入ったスーツのジャケットを脱ぎ、丁寧に畳んで裸の男の体のきれいなところに置いた。
 槐詩は立ち上がると、頭を下げてお辞儀をした。
 その態度はとても誠実で謙虚だった。
「すまない」
 槐詩は言った。
「友達が死んで、とてもつらいんだ」
「……」
 短い空白の後、男たちは笑い出した。
 それから、彼らは少年がゆっくりと頭を上げるのを見た。少年は無表情で男手たちを見ていた。
「だから、この後なにかまずいことをするかもしれない。先に謝っておく――」
 槐詩はゆっくりと両手を上げ、胸の前で構えた。
 胸中を吐露した敵に対しての最後の憐憫だった。
 ――ローマ式ナイフ格闘術・レベル6!
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「相変わらず殺風景な場所ね」
 車椅子の少女は事務机の前で、周囲を見回した。
「また広くなったみたい」
 ここは市立図書館の地下書庫――単調な蛍光灯の光が照らす中、膨大な書架が視線のずっと先の暗がりに見えなくなるまで並んでいる。
 六十年以内の、深海市で発行された雑誌、新聞、機関紙とすべての行政文書……つまり、およそすべての紙に印刷されたものが、ここに収められている。
 電子版も隣のサービスセンターにあり、いつでも調べることができる。
それは市立図書館の責任の一つであるが、ここまでたいそうなことになった原因は、事務机の奥に座っている男、新海市立図書館の司書、『教授』と呼ばれる昇華者しょうかしゃにあった。
 教授であることは間違いないが、この男が取得した学位がいくつなのか、本人すらよくわかっていなかった――彼の最大の楽しみはこの広大な地下書庫の中で本を読むことだったので。
 梃子でも動こうとしなかった……

訳者コメント:
槐詩の命に懸賞金がかけられました。なかなか平穏な生活に戻れません。ストーカーが裸で街中を走るのをスマホで撮影するモブたち……だめだよ撮影しちゃ……

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