『天啓予報』第62章 野心
第六十二章 野心
早朝。市立図書館の地下書倉は再び客人を迎えた。
教授は相変わらず肉の山のような様子で、艾晴が来た時、何か面白いものを読んでいたらしく、声を出して笑っていた。
「お早いですね」
艾晴を見て、教授は本を閉じた。
「寝ていないのですか?昨夜の火災の件は実に厄介そうですね。午後にいらっしゃるかと思ってました」
「面倒なことばかり」
一晩眠れなかった艾晴の顔色は蒼白だったが、表情はいつも通り落ち着いていた。
「早く解決するといいけど」
「コーヒー?紅茶?」
「コーヒー。砂糖二個。ミルクなしで」
「ちょうどよかった。昨日いい豆を買ったばかりです」
教授は嬉しそうに自分の道具を取り出した。間もなく、ドリップポッドからコーヒーの芳しい香りが漂ってきた。
一杯のコーヒーが艾晴の前に出された。
「どうぞ」
コーヒーを飲み終わると艾晴の顔色は少しよくなったようだった。まだ溶け切っていない砂糖が底に残るカップをソーサーに置き、艾晴は長く息をつくと、気持を奮い立たせようとした。
ぶ厚い書類が机の上に置かれた。
「調査結果です」
教授は契約書のコピーや交易書の類の煩雑な書類を艾晴の目の前に拡げた。
「二十年前から、戚問と救主会は、一定の距離を保ちつつ協力関係にありました。残念ですが、決定的な証拠はありません……それと私の調査によれば、ここ数年、戚問に協力している相手は、いえ、支持者と言うべきでしょうが、それは陰家のはずです」
言うと、教授はまた別の一冊の厚いファイルを艾晴の前に置き、尋ねた。
「まさか復讐を考えてるので?」
「どこの国の笑い話?」
艾晴は煩そうに眉間を揉み、言った。
「戚問は陰家の代理人として財を成してからも、ずっと犬のように使われていた。いま彼の野心が昂じて死ぬことになったとしても、陰家にとってはなんの痛手にもならないわ。それに戚問のような奴が、簡単に尻尾を出すわけがない」
その言葉に深く感じたように、教授は肩を聳やかし、もう何も言わなかった。
静寂の中、紙をめくる音だけが聞こえた。
救主会のここ数年の動向を広汎に調べるよりも、戚問と救主会の関係に絞って調べるように方向転換してから、教授の効率は大幅に上がった。
たった一日で大量の手がかりが見つかった。地下書庫にある新海市の公式の記録を繫ぎ合わせ、厚い資料が出来上がった。
大量の財産権の移動と、ここ数年の戚問麾下の産業の転換と変化。それらに加え、明日新聞の特殊ルートによって、戚問が行っている様々な裏稼業もすっかり明らかになった。
様々な資料を基に教授が導き出した結論は、艾晴にも信じられないものだった。
「蓬壺辺境への航路と物資の供応を独占しようと考えている?」艾晴は嗤った。「自分にそんな資格があるとでも思っているのかしら?」
「目下、彼は大金を投じてロビーイングをしており、入札資格を手に入れています」
教授は口を大きく開けてマカロンを放り込んだ。
「もし背後に誰かついていれば、あるいは」
「陰家のことね?」
教授は肩を聳やかした。
「彼はここ数日、しきりに金陵に足を運んでいます」
教授の推測は理にかなっていると艾晴は認めざるを得なかった。
海に囲まれた辺境への航路を独占することによってもたらされる利益は莫大である。すべての昇華者の往来が、そこに依拠せざる得ないと想像すれば……
だが、ファイルの中に続く内容は、艾晴の眉を顰めさせた。
密輸。
密輸はもともと大したことではない。程度の差はあれ、グレーな商売は世界中で行われている。だがこの記録に暗示されていることは、艾晴の表情を一瞬にしてこわばらせた。
「断定できる?」
「もちろん無理です。この件についてはどの情報屋も漏らさないでしょう。いえ、情報を知っている者は全員、土の下で眠っているでしょう。どうして証拠を手に入れられます?」
教授の報告によれば、この数年来、各国での大量の失踪事件と戚家の密輸ルートが明らかに結びついている。
つまり、戚問は恐らくずっと新海に大量の人間を密輸していたと考えられる。
人間は生きてさえいれば、毎日食べたり飲んだりするものだ。数千人が新海のような小さな町で目立たずに暮らすことはまず不可能である。
そこで問題である。
人間は?
どこへ行った?
新海に来てから蒸発した?
いや、だとしたら……
救主会の帰浄の民、それと彼らが飼育していた辺境の異種。
艾晴には彼らの末路が推測できた。
どうやらこれが、戚問と救主会の協力の基盤であるようだ。
戚問がずっと彼らの祭祀のために生贄を提供していたのなら、そして帰浄の民が救主会の名目において密かに支持し、資金だけでなく、裏の世界のことについても彼らを助けていたならば。
艾晴はしばらく考え込んでいたが、ふいに表情を微妙に変化させ、ファイルを閉じた。
「それから?」
「え?」
教授は尋ねた。
「もしそうなら、あなたは特別な値段の付いたものを持っているはずよ?」
艾晴は冷静に教授を見た。
「あなたが持っているものを出して」
教授は気まずそうに笑った。
「あなたには何も隠せませんね」
教授はデスクの下から薄いファイルを取り出したが、艾晴には渡さなかった。
「この情報の重要性は決して高くはありません。ですが私が思うに、きっとあなたが関心を持っていることです。価値があるものだと保証します」
艾晴の表情は依然として冷たく、報酬のことには触れず、静かに教授を見つめていた。
しばらくして、教授は困ったように溜息をつき、ファイルを出した。
「あなたの勝ち。だけど資料代は三倍です」
艾晴は首を振った。
「二倍しか出せない」
「交渉成立」
教授は頷いたが、その顔は悲しそうだった。
書類封筒の中には、病例が折り畳まれて入っていた。市内、市外、国外の病院の診療記録と具体的な入院観察経過まで。
八年前。
場所は新海。
六人の社長、十一人の会社幹部、数十人の事務員が、各種の意外なきっかけで原因不明の高熱によって入院した。当時は様々な噂が流れた。それからかなりの時間が経ったが、人々は当時のパニックを昨日のことのように記憶している。
だが結局のところ、病気になった人々は一般人であり、特に注意を引くことはなかった。
唯一の共通点は、様々なレベルで槐氏集団と戚問の事業に関わっていたこと。
時期は、まさに槐詩の家が破産する一年前。
艾晴は静かに記録を読むと、目を閉じ、長く息を吐いた。
「当ててみせましょうか」
艾晴は静かに言った。
「その人達は植物人間になった。違う?」
教授は頷いた。
「『失魂引』です」
艾晴はゆっくりと目を開いた。表情は暗かった。
疑いの余地もなかった。地獄異化された病毒を利用した凶悪事件。人体の源質に寄生し感染するウィルスは普通の抗生物質では対処できない。
十人を越える異常な事態に、本地の監察官はすぐに天文会に報告をするべきだった。だがどうやってこれが問題でないように報告すればいいのか?正直に報告すれば責任を取らされる。
悪質な事件は、適当な報告書の隅に二、三行書かれただけで、まったく現実とはかけ離れていた。
「事件を解決して、ゴミのような前任者は大金を手に入れたそうよ」
艾晴は冷笑し、車椅子のひじ掛けを叩いた。
「彼を辺境送りにしたのは優しすぎたみたいね……」
悪質なウィルスによって事情を知る者はすべて片付けられ、なんの証拠も残らなかった。
戚問は正式に槐家の最後の基盤を呑み込み、略奪に近い形で大事業を買い叩くと、血なまぐさい資本の蓄積を完成させた。槐氏の死体の上に自分の海運集団を建設し、外地から来た無名の商人が新海でも有名な富豪になった。
大富豪と言っていい。
もし陰家という後ろ盾がなければ、どこの馬の骨がこれだけ好き勝手できただろうか?
教授はふいに言った。
「だけど腑に落ちないことが一つあります」
「何を聞きたいかわかるわ」
艾晴は思わず冷笑した。
どうして徹底的に資産を奪ったのに、槐詩の命を奪わなかったのか。
「それが戚問という犬の最大の忠誠心だっんじゃない?」
訳注:
蓬壺……日本のこと。
訳者コメント:
艾晴も値切るんですね……意外でした。
この作品の東夏の国の首都は、金陵(=南京)にあるようです。新海のモデル?は上海なので、新海から金陵までは電車で三時間ぐらいの距離ですね。