『天啓予報』第47章 心毒

第四十七章 心毒

 瞬間、破裂音がして、つづいて風を切る音が響いた。
 拳を突き出した時、教官の右腕は膨張し筋肉は膨れ上がった。
 槐詩かいしが避けると、拳は地面を叩き、広場全体が揺れた。
戦車の爆撃を受けたかのように。
 主観記録の中で、紅手袋のかつての恐怖がもたらした変化なのか、それ以外の何かなのか?
 槐詩にはもはやどうでもよかった。彼がこのような形態の教官に殺されたのは一度や二度ではなかった。
 弾丸、銃、爆薬、どれもまったく歯が立たなかった。
 まるで悪夢の中の魔物のように。
 かつての紅手袋の記憶の中、残忍に人間兵器を製造するこの教官は不敗の象徴であり、力はいびつに誇大化され、怪物のようになっていた。
 幸いにも、この程度の変化は、槐詩にとっては大したことではなかった――
 槐詩は手を伸ばし、地面の血溜まりに浸した。
 圏禁けんきんの手!
 槐詩は初めて記録の中で習得したばかりの技を使った。
 源質げんしつの炎が指先から燃え上がり、血が沸騰するかのように躍動して、灰色の蒸気が立ち上った。
 何人もの死骸と鮮血の中から立ち上る濃霧のような劫灰こうかいが、広場全体を覆った。
 どうして自分の霊魂が白銀の海によって『圏禁の手』という奇妙な名前を与えられたのかは知らないが、その本質を槐詩ははっきりとわかっていた。
 霊魂の内の源質と物質内に存在する鉄の間の架け橋となり、両者を任意に転化できる。
 用途は広かった。
『無形の斧』は、槐詩が七年来蓄積していた不安と殺意を源質に仮託し、それを鉄に転化した武器である。
 現在、槐詩は圏禁の手を基礎として、外界に散逸している源質の転化を試している。
 そして、見えないほど細かい錆びた砂鉄を血の中で昇騰させている。
 それは破滅の精髄。
 死を凝集した劫灰。
 乾いた風や塵埃とともに、鼻をつく血なまぐささと硝煙の匂いの中、迅速に立ち上り、広がった。
 すべての絶望と苦痛が槐詩と教官に平等に与えられた。
 暗い霧の中から掠れた咆哮と怒声が伝わり、風が吹いても源質と物質の間の霧は吹き飛ばされなかった。獰猛な黒い影が槐詩に向かって飛びかり、拳を振り下ろした!
 槐詩は身を躱し、右手に持ったナイフを横にひと振りした。巨大な奇形な腕に傷がついた。つづいて槐詩はナイフをくるりと持ち替え、教官の喉に突き立てた!
 ガン!
 ナイフは教官が上げた腕に刺さり、骨に当たった。鋼鉄どうしがぶつかったような音がした。
 凶獣のような荒い息が教官の胸を上下させ、狂暴な力がもたらす息は空気中の劫灰を大量に体内に吸い込ませた。苦痛と絶望の刺激の下、教官は怒りに狂ったようになった。
 野獣のように。
「どうだ、自分の手で作り上げた絶望の味は?」
 槐詩はぐっと軍刀を握りしめ、奇形な腕越しに教官の顔を見つめ、
嘲り笑った。
「――俺はもう慣れた。あんたは?」
 バッ!
 巨大な腕が横に払われ、空気を切り裂いた。風は槐詩を三歩吹き飛ばした。だが槐詩は再度襲い掛かり、本来ならば勝つことのできない教官に向かっていった。
 獰猛に笑いながら。
 酒に酔っているような感覚がした。
 恍惚と覚醒を同時に感じ、つづいて熱狂が槐詩を包んだ。
 それは言葉にできない自由。
 極度の憤怒ののちに迎える解放。
 呼吸の度に空気中の劫灰が肺腑に吸い込まれ、死者の苦衷を吸収し、彼らの絶望と溶け合って一体となる。
 無数の死と結合したかのようだ。
 槐詩は記録者と記録されたものから記録のひとつになった。
 無数の死がもたらす苦痛を一時に感じ、虐殺者と虐殺された者の死の絶望に浸った。
 それらの人間の霊魂と彼は肩を並べて立っているかのように。
 虚しい死は炎となり、彼の胸の中で沸騰させられ、彼の憤怒と苦しみと意思と混ぜ合わせた後、名もない衝動に変わった。それは内から外へと爆発し、彼を飲み込み、彼を敵に向かわせ、懲罰を与え、真の死を与えさせようとした!
 圏禁の手が握られて、灰色の炎が刃から立ち上っている――劫灰よりも更に暗く青白い色の、無数の絶望と苦痛に再び精錬され、抽出され、昇華しょうかされた純粋なもの。
 純粋の毒。
 死亡記録の中から採取された毒物、疑いもなく傷を負った精神からくる死の苦痛。槐詩が既に何度も体験したような。
 瞬間、運命の書の字が変化し、『軍隊拳』のレベルが上昇しただけでなく、『圏禁の手』の霊魂説明の下に、霊魂応用と見られる新たな項目が出現した。
『心毒』!
「そうよ、そうこなくちゃ!目には目を、歯には歯を!」
 烏鴉うやは記録の中で狂気に浸っている少年を見つめ、愉快そうに笑い出した。
「死を代表し、暗黒の谷に行って野獣に報復する!それがあなたの天命よ、槐詩、天国の最後の守護者……」
 その瞬間、槐詩のナイフが教官の右腕に切りつけた。
 奇形の教官は苦痛に咆哮し、巨大な左腕で槐詩を叩いた。叩かれた槐詩はまったく気にかけていないようだった。彼は何も動揺せず、やはり我を忘れて 前に向かって進んでいた。
 漆黒の瞳は純粋な闇を湛えていた。
 槐詩はまた軍刀を振り下ろした!
 ガン!
 軽い軍刀が圏禁の手に握られて、切り下ろした時に斧のように重い音を立てた。
 槐詩が揮うナイフには不思議な重さが宿り、敵の筋肉を切り、血肉を飛び散らせた。
 斧で割られる薪のように骨が砕ける音がした。
 教官は咆哮し、拳を握りしめ、巨大な五指を開き、槐詩の顔をつかもうとして、鉄色の手は真っ二つに切られた。
 刃は深々と腕を割いた。
 激しい苦痛の中、教官は槐詩を見て深く息を吸い、叫んだ!
 雷鳴のような声が響いた!
 軍刀は折れて地面に落ちた。源質の火がその中から湧き出し、鋭利な輪郭を作った。少しずつ前に進み、破竹の勢いで、腕を正面から一撃のもとに切断した!
 燃えるナイフを再び振り上げ、振り下ろした!
 奇形な腕は教官の方から地面に落ちて、鮮血が切り口から噴出し、広場を染めた。
 苦しみを受けた老人、絶望した女、放心した子供、彼らの血と一か所に集まり、荒れた土地を同じような暗い色で染めた。
 教官はぐらつき、よろよろと後退すると大地に倒れた。
 槐詩は息を切らせながら、感情のない目でひとつまたひとつと死体を跨いで教官に近づいた。
「お前のおかげで、俺ははっきりと分かった――」
 槐詩はつぶやくと、足を上げて教官の胸を踏みつけ、無駄に足掻く教官を再び制圧した。
 槐詩はナイフを振りかざし、教官の喉に狙いを定めた。
「俺が昇華者しょうかしゃになることを選んだのは――」
 槐詩は別れを告げるように、教官の歪んだ顔を見て、一字一句はっきりと言った。
「――お前のようなクズを殺すためだ!」
 刃先は振り下ろされ、大地に深い亀裂が刻まれた。
 鮮血が死体の喉から噴出し、乾いた土の中に染み込んでいった。それは死んだ大地に貴重な潤いをもたらした。来年は花が咲くかもしれない。
 槐詩は世界が揺れるのを見た。
 すべてが砕けた。
 槐詩は暗黒の中に沈み込み、すぐに椅子の上で目を覚ました。大量の汗を掻いていて、虚脱し、酷く疲れていた。
 だが不思議と冷静で、心は満たされていた。
 さっきの虚構の復讐の中から報いを得たように。
「クリアおめでとう」
 テーブルの上の烏鴉は槐詩をしげしげと見た。
「収穫はあった、槐詩?」
「……」
 槐詩は沈黙した。なんと答えていいかわからなかった。
 槐詩は結局のところ何もしておらず、何も救わず、復讐もしていない。
おそらく十数年前、すべてはとっくに終わっていた。彼のしたことは、原作を読んで不満に思い、原作を破り捨てて、自分で書いた同人誌を作ったようなものに過ぎない。
 何の役に立つ?
 しばらく考えて、彼は笑い出した。
「いい夢だった。少なくとも始めと終わりがある……」
 槐詩はテーブルに手をつき、ゆっくりと起き上がった。そしてテーブル置いてあったナイフをなんとはなしに手に取り、弄ぶと、またテーブルの上に放り投げた。ナイフはすとんとテーブルに刺さった。
「その他のことは、自分を慰めるおまけだ……」
 言うと、槐詩は身を翻して階段を上って行った。
 まる一日の苦しみを終え、槐詩は眩暈がし、目の前が暗くなり、眠くて死にそうだった。
 世の中で、ぐっすりと眠ることよりもいいものはない。
 あるとしたら、二度寝である。
「早めに寝る」
 槐詩は手を振り、寝室のドアを閉めた。
 烏鴉は少年の姿が消えるのを見送って、振り向いて机の上を見た。
スタンドライトの明かりの下、送料込みで安く買ったナイフに鉄の色が付着し、漆が禿げたテーブルの表面に長い影を落としてている。
 メキッ!
 刃先が突き刺さった場所に、突如として無残な傷が出現した。
 斧で作った傷のような。
「お休み、槐詩」
 眠りなさい。
 烏鴉は羽根を広げ、窓の外のおぼろな夜色の中に飛び去り、見えなくなった。

訳者コメント:
槐詩の成長に、涙してしまいます……

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