「そういうことでは無いのよ」の話②
アンチと擁護者は紙一重。
意味のない言葉に湧く的外れな議論。
SNSには炎上がつきものだ。1つの投稿に対して誰もが意見を持ち、時には擁護者となり、時にはアンチとなり日々議論が行われている。
私自身も過去に投稿したツイートが軽く燃えたことがある。
個人的には楽しかった思い出を共有しようとふざけた動画に「これが○○のやり方です。」なんて、イキった大学生が投稿しそうな内容のない投稿だった。こちとらそれが正しいやり方だなんて思ってもいないし、ましてやただ友達とふざけた動画を乗せただけだった。
世間はその「乗せただけ」がなかなか伝わらない。
文章を大真面目に解釈し大真面目に評論する。そしてだんだん広がっていき
アンチや擁護者が生まれていく。
いたってシンプルな過程なはずなのに、多くはそれを理解できていないと思っている。これは私の偏見に過ぎないが、、、
そういう投稿を目にして私もいろんな感情は持つが、1番に感じるのはやっぱり、的外れな意見に対する「そういうことじゃないんだよな。」ということである。
その投稿にどんな意図があったのかは本人でない限り知りえないことなのだが、その投稿を真正面から受け取って意見することは危険だと思う。
かつて「ツイ廃」という人たちがいた。その人たちがするツイートのほとんどは特に意味がない。呼吸をするようにつぶやくことで自分自身の心の安定を保つだけのいわば「自慰行為」に過ぎない。
それを他人からいちゃもんをつけられたらどうだろう。「好きにさせろよ」と思うに違いない。
そんな中で勝手に意味を想像し、持論をつけて、結果的外れな意見が生まれてくる。正直言ってだるい。そしてなにより面白くない。
そしてこのようなことを言えば「じゃあ見るなよ」といわれる始末。こちらからも言わせてほしい「じゃあいちいち反応するなよ」と。
結果何が言いたいかというと、人の言葉を疑うことも必要だということだ。
いろんな意見があるからこそ。
結局、多くの炎上の中で繰り広げられる議論は、「エゴの押し付け合い」でしかない。どうにかして自分の意見をわかってほしいからこそ起こる「無駄な議論」にしかなっていないのだ。
誹謗中傷はいつ何時でもあってはならないものだと思うが、しかし批判は誰しもがしていいことだと思う。そして擁護する意見があって当然だ。私たちはそういう世界で生きている以上、他人の気持ちを完全に理解することはできない。だからこそ「そういう意見もあるのか!おもろい!」って思うほうが絶対にいいし、楽しくSNSを使えると思う。
私が書いてるこの文章もすべての人が分かってくれるとは思っていない。ただ、そういうことを考えている変な人なんだなって思ってくれればうれしいし、少しでもわかってくれたら跳んで喜ぶし、批判が来ても落ち込むだろうけど、受け入れる。私はそういう人間として生きている。
あとがき
文章にまとめるのは難しいけど、言いたいことを言えるのは楽しいね。
ってことでこんな話はおしまい。
堅苦しくなっちゃったので、次回以降は楽しい話でもしようかな。
またね。
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