「話せば分かる」という幻想について。
この気温、この感じの風、この花の咲き具合、この風景。
最近外に出ると、1年前の、上司からのパワハラに悩み、その上の上司に相談したり、労働局に相談したり、録音したり、これまで遭ったパワハラの日時や場所、内容や抵触する行為と該当するガイドラインなどをまとめた報告書を作ったり、どうにか出来ないものかと労働関係法令やガイドラインや民法等を調べるなど、1人で格闘しながら無力感を重ねていたあの頃を思い出す。
✳︎ 「話せば分かるか否か」は会話を阻害している原因次第?✳︎
「話せば分かる」
あなたはその言葉を聞いてどう感じるだろう?
私もかつてはそうだと信じていた。
でも今は違う。
もっと具体的に言えば、話すこと、つまりコミニュケーションを阻害している原因次第だと思っている。
もし相手に「会話をする気」が無ければ、そもそも話すこと自体が出来ないか、表面的な物で終始せざるを得ないし、逆にもし理解力や言葉の問題、誤解、視座の違いなら、何かを補う事でまだ分かり合える可能性もあるかも知れない。でももしハナから相手に「分かろうとする気」が無いなら、これもまた分かりあう事は難しいかもしれない。
✳︎どんなに努力や工夫しても「伝わらない」という苦悩✳︎
一年前、私が「立場をわきまえろ」と言われたのは一度や二度では無かったし、それを言ったのは1人や2人でも無かった。そして論点は毎回、何の話をしても結局「わきまえない、あなたの人格に問題あり」という内容にすり替わっていった。
すごく雑なくくり方をすれば、最終的に私は「アサーティブな会話が成立しない環境下では『話せば分かる』は成立しないのかもしれない」と無力感を持つに至った。そしてその事は私を大きく絶望させ、会社と自分、双方の限界を感じさせた。
✳︎今の私から一年前の私へ✳︎
もし誰かと分かり合いたいのに分かり合えなくて、試行錯誤しながら自分を責めたり悩んでいる人が居るのなら、是非伝えたい。
『話せば分かる』は万能では無いのだと。
そして物理的には無理でも、せめて心理的には区切りをつけて、不毛な自責から自分を解放し、この春を是非のびやかに迎えて欲しい。
ある意味これは、今の私から一年前の私へのメッセージでもある。