ゴータマの悟り
ゴータマ的には
①瞑想が真理に近付く道ではなく、真理を捉える為の瞑想でないと意味がない
②自分を離れた真理に基づく主体的自らこそが本当の道観
③仏教は真理体系の成就
④事象をありのままに捉え得る理でないと意味がない
自分というのはその場その時の自己に過ぎない。
昨日の自分と今日の自分は違う。
同じ瞬間ですら朝起きる時に寝てたい自分と起きないとという自分がいる。
そんな数多の自分がいつもある。だが全て自らの事と。
又自分の事と言っても自身のこの身体サイズとは限らない。
車に乗ればそのサイズが自分の事。
個我意識は1を1として捉える認知が自己に適用されたものに過ぎない。
その数多の自分がぶつかり合ってるのが殆どの場合の悩み。
自らとはその全てを貫く軸。
だから数多の自分が全て自らの事と捉え得る。
自己は自らと自身の交点。
真理に基づく自らであるが故にその数多の自分が修まる。
真理としてあるとは、全てが真理に基づいてあるという事。
全ての物理的事象が物理法則に則っているのと同じ。
その様に世界そのものがあるが故にそれを法界と言う。
物理宇宙世界だけに限定するなら物理宇宙法界。
仏法のあり方なら仏法界。
悟りとはその真理の法理が全てに及んであるという自らに於ける認知。
ここで言う自らとは人間の脳的自己認知ではなく、全てにその法理が通ってあるという事。
認知とはそれに基づいてそれぞれが世界にあるという事実。
ガリレオがそれでも地球は回っていると言った様に人間がどう思って様と関係ない。
まあ認知と観測は別のものだがそれは一旦置いとく。
故にそれは自己のみならず他己にも及ぶ。
自分をさらけ出すではなくそもそも世界の真理に於いて自分も他人もさらけ出されている。
自分が他人に伝わるという個同士の相互関係ではなく世界の真理に於いてそれぞれの個がどうあるかが仏智的見方。
ゴータマは出家して最初の師の元で、相互関係に拠って成り立つあり方に拠ってある自らという見方を。
次の師でそれ自体が場に於いて設定されてあるものに過ぎないという見方を。
更に3人目の師の元でその場自体にその設定を含んである事を。
場とは物があるならそれだけの空間の場があるという様なもの。
物理世界なら物理法則現象が成り立つ時空間の場であり、万有引力の法則なら引力場であり、磁石なら磁場であり。
その様なあり方で捉えると分かり易い。
それはそれぞれの法則が働く法場だけど、法は一旦置いといて場だけに視点を合わせて。
その場で全ての設定を捉えてあればゴータマが求めた悟りが得られるのではととことんやったけど、ダメだった。
それで止めて沐浴をしていたら乳粥を貰ったのでそれを食べた時に、悟りに通るあり方を見た。
さっき一旦置いた法のあり方を見た。
場は法場であると。
だから元々全てに通ってあると。
場に設定が好き勝手無秩序にあるのではないと。
乳粥を食べた時に、場で全てを捉えてという事をやっても繋がらなかったものが、粥を食べた時に全てが法の通りに於いてあると繋がった。
その法場に繋がる悟りへの通りを以て菩提樹の下でそれが全てに及んである観想を成してゴータマは成道した。
ゴータマの言う八正道はその通りを全てに於いて徹底しろという意味。
中道とはその全ての中に通ってあるその通りの道の事。
法場の法理を自らに通すことに拠るから自灯明法灯明。
因みにわかり易くする為に場と書いてるけど、仏教では定の事。
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