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『ラスト・ナイト・イン・ソーホー』がダメだったという感想

『ラストナイト・イン・ソーホー』(原題: Last Night In Soho) 2021年/英

個人的には、個人的なビッグタイトルだった本作。なんといっても、監督がエドガー・ライト。前作『ベイビー・ドライバー』から早4年。コロナ禍で公開が延期になったこともあり、本作への期待が自分の中で高まっていました。でも、ダメでした。テーマや題材がものすんごく良いだけに、「どうしてこんな出来に・・・・・・」とわりとショックを受けています。そんな感想です。ネタバレします。

忘れる前に良かった点から。

撮影。
ジャッロ映画の美的感覚と60年代のサイケ調のマッシュアップとも言うべき、ライティングバキバキで色調が決まりまくった、華美の極みのような画作りでこの辺は惚れ惚れするようでした。撮影監督はチョン・ジュンフン。韓国出身の撮影監督で、キャリアを見てみるとパク・チャヌク組で大納得。『お嬢さん』で夜の原っぱを駆けるシーンを見たとき、間違いなく世界一流の撮影技術だとビックリしたもんですが、今回も撮影そのものがケレンたっぷりで見どころです。世界的には自分の名前で客が呼べちゃうスター撮影監督が何人かいますが、遠くない未来、間違いなくこの人もそうなるんじゃないかと思います。

編集。
エドガー・ライト十八番のポピュラー音楽と映像をシンクロさせる演出手法は、前作『ベイビー・ドライバー』で一つの完成を見ていましたが、やはりその辺りは今回も外しません。リズムに合わせたカット割りや曲と環境音のミックスは当たり前、凝ったところになると、画面を通り過ぎる街灯でBPMを刻んでみたり、究極は主人公がヘッドフォンに聞いている曲とその外側で鳴っているクラブミュージックのミックス。ここまでいくとDJの域です。オールタイム・ベストのMVがケミカル・ブラザーズの『StarGuitar』な私には、もう本当に鼻血モノの大好物です。
少なくとも前作から、エドガー・ライトは現場で実際に使う曲を流して撮影するようですが、今回もメイキングを見る限り、同じ手法を使っています。
編集はポール・マクリス。エドガー・ライト監督作は『スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団』から担当しており、昔からカッティング命だったエドガー・ライトの演出を支え、トレードマークにまで押し上げたスタッフと言えるでしょう。やっぱ信頼してないと『ベイビー・ドライバー』とかやれないでしょうし。

主演の二人。
言ってしまえば、ほぼアイドル映画っぽく見えてしまうくらい、主演の二人は良かったです。ジャッロのオマージュやるんだったら、二時間顔だけ映しても飽きないような女優を真ん中に据えなきゃならないわけで、そういう意味では特にアニャ・テイラー・ジョイなんて、今ジャッロやるんだったら絶対にこの人!って人選で、その辺りも外さないです。『ウィッチ』とか『クイーンズ・ギャンビット』もそうなんだけど、アニャが出てくると他の全てが後景に退いて、アニャのアイドル映画になっちゃうんで不思議です。少し前まではホラーの新星!って感じでしたが、『クイーンズ・ギャンビット』を経てなんかもう貫禄十分、このまま2020年代を代表する女優さんになるんでしょう。トーマシン・マッケンジーは子役っぽいイメージがあったので、あれ?こんな大人なんだっけか?と驚きました。

すごく良かったのはこんなところです。
実は主演の二人が良すぎるのは問題点でもあって、明らかにエドガー・ライトもアイドル映画的に二人を美しく撮ることに注力しており、特にアニャがアイドル的に見えてしまうのはテーマには逆行していると思うので、その辺りは後ほど書きます。

では記事のタイトル通り、作品全体としては「ダメだったなぁ・・・・・・」という感想になってしまった部分を書いていきます。基本的には、今作が訴えかけんとしているテーマとエドガー・ライトの資質が合ってないんだろうな、と思っています。

なによりも脚本が頂けません。まず、ちょっと我慢ならない点が二点。

イケてない点①「女の敵は女」と捉えられてしまうキャラクター

これは本作最大の問題でしょう。本作はスウィンギング・ロンドンの華やかな60年代への憧れと、その裏で確実に存在した女性への性的搾取、そしてそれが現在にも連続していることを描いてると思ってます。そういうテーマを持ちつつも、登場する女性同士の間に生まれるのが敵対や憎しみだけ。とにかくこれが頂けない。
Metoo運動以降、映画における女性の描かれ方、女性同士の関係のあり方は大きく変わりつつあります。これは非常に歓迎すべき変革です。しかし、本作はその変革に全く置いてかれてしまっています。その辺りがゼロ年代っぽい感じで止まっていて、とくかくだせぇし、古い。やっぱエドガー・ライトってボーイズクラブの人なんだろうな、と遠い目になってしまいました。
特に以下の二人のキャラクターの描き込みが全くイケてなく、観賞する上で大きなノイズになりました。

・いじめっ子のジョカスタ
ジョカスタは、典型的なクイーンビータイプとして設定されており、なんとなーく実家も太い感じで、主人公のエロイーズと正反対の人物として創造されています。何が気に食わないのかよく分かりませんが、ジョカスタはエロイーズをしつこく、なおかつ露骨にいじめます。あまりにも露骨なので、周囲の学生や教職員が誰も止めないのが非常に不思議なくらいです。なんなの?学長の娘かなんかなの?
ジョカスタが担うプロット上の役割は、エロイーズを寮からはじき出す部分のみ。あとは終始エロイーズに嫌がらせを繰り返し、彼女の学校での孤立を演出する装置に徹します。
この嫌がらせマシーンと化す彼女そのものと、服飾デザイン学校のシーンの描写がちょっと幼稚が過ぎるのでビックリします。私も全く知識がありませんが、しかし服飾学校やその生徒達への取材に基づいた描写がなされているとは、到底思えない部分が多々あります。あの学校、なんか立派な学校って感じで表現されてましたよね?それにも関わらず、デザイナーを目指しているはずのジョカスタが登場直後に、自分のブランドものの服を自慢し、エロイーズの自作の服を「独自路線ね」と嫌がらせのタネにして見せる。以降もエロイーズがデザインする60年代調の服を延々小バカにして、エロイーズが講師に励まされるとガヤを入れていくる始末。このジョカスタの行動に作劇上の意味が見いだせないんです。この役柄が「女の敵となる女を出したい」とか「女のいじめは陰湿」といった、書き手の前時代的な感覚に基づいた"ムカつく女"像を担ってしまっていて、非常に良くないです。役名を与えられた学生がジョカスタともう一人くらいなので、ジョカスタが人格の剥ぎ取られた、エロイーズを迫害する装置になってしまっていることで、服飾学校のシーンがいずれも尋常じゃないくらい面白みのないシーンになっています。
せっかく主人公と鏡像の設定を持ったキャラクターなのだから、本来的にはエロイーズはジョカスタと向き合ったり、もしくは反面教師的に乗り越えたりすることで、エロイーズならではのデザインの才を掴んでいくんだと思うんです。しかし、そういうことは一切起きない。そもそもデザインにまつわるシーンが殆どないため、エロイーズのデザインが良いんだか悪いんだか、成長してんだかしてないんだか、その辺りが全くわからない。だから必然的に、ジョカスタを含めた学生のキャラは、エロイーズを奇異の目で見ているか、酒を飲んだ騒いでいるかのどちからで、物語に絡む余地が無い。だからこれ、根本的に服飾学校のシーンが上手く機能してないんですよね。
ダメ押しで、ジョカスタ関連で個人的に承服しかねるところが二つあって、ジョカスタがエロイーズの酒にドラッグを混ぜたと匂わせる展開と、事故とは言えエロイーズがジョカスタにハサミを向けてしまう展開。この二つの展開は、エロイーズが不可逆的に学校に戻れなくなってしまったことを描いたものだと思ってたんですが、エピローグでエロイーズは普通に学校の発表会を成功させてるし、ジョカスタは渋々ながらも拍手を送ってみせるし、なんかもう観てて脱力しちゃった。本筋とは関係ないとは言え、先に上げた二つの展開は、エロイーズとジョカスタが、お互いにエクスキューズを付けないとクローズ出来ない展開だと思うんです。そのエクスキューズが付けられないんなら、絶対にカットすべき展開だったと思います。特にお酒にドラッグを混ぜるのは、現実では男性が女性をレイプするときの常套手段であるため、どうして女性同士の関係性においてそんな展開にしたのか、ちょっと理解に苦しみます。
ちなみに、ジョカスタがどうしてこんなキャラになっちゃったかと言うと、実はこの脚本のコンセプトそのものの問題だと思うんです。”主人公と鏡像関係にあるキャラ”は、通常の脚本では一人で十分ですが、この脚本には二人出てきています。一人がジョカスタ。もう一人は60年代を生きるサンディです。もちろん脚本的な重要度はサンディの方が圧倒的に大きいです。エロイーズのデザインや自身のファッション、言動はサンディに影響を受けたものになっていきますし、それがこの物語の中盤辺りまでの展開そのものです。また、しつこいくらいにエロイーズとサンディが鏡像関係であることが演出されます。だからそもそも、ジョカスタってはじめから役割が無いんですよね。役割が無いっていうか、役割を持たせるべきキャラクター設定を割り振るべきじゃなかった、というか。何らかの戦略を持って描かないのであれば、基本的にはもっと存在感を薄くすべきキャラクターだったんでしょう。
なんとなーく『サスペリア』っぽい女子寮モノ、才能が評価される女性の世界(『サスペリア』はバレエ)、陰湿な女性ヒエラルキーあたりがやりたかったのかなぁ?とも感じますが、やるのであれば、テーマもテーマだし、現代の価値観にアップデートしてもらわないと困っちゃうな、と。

・コリンズ婦人
ジョカスタで書き過ぎたんであっさり書きます。
エロイーズの下宿先の大家であるコリンズさんは、実は死んでいなかったサンディその人なんですが、この人も殺人鬼だとわかった瞬間になーんか人格が剥ぎ取られちゃう。っていうかその事実が判明した後、サンディに対して同情を誘いたい瞬間は60年代当時の若い姿で映り込んで、恐怖を演出したい瞬間は現在の姿が鬼婆的な勢いで映り込んでくるんですけど、そういう演出をすることで60年前と今との間の連続性が途切れてしまっているように感じられて、そこが頂けませんでした。だって、当時自我を殺すほど苦しんだサンディは目の前の老婆その人に変わりなく、どうして老婆の姿になったら怖く描かれなきゃいけないんだ?と。なーんかエイジズムとルッキズムが前提となった演出っぽく感じられて、最後に急にテーマに逆行するね!?とちょっと驚きました。
あと、この人死にますけど、死んじゃダメでしょ。死なずに、逮捕されて、しかるべき場所で自分の身に何が起きたのか語るか、出来事の性質上、無理に語る必要はないにしても、あの刺されて塗り込めらた男たちがどこの誰で、なぜ殺されたのかは、広く世に明らかにされるべきでしょう。あの家が燃え、男たちの身元が不明のままになってしまうと、少なくともあの男たちの名誉は守られてしまう。行方不明の牧場主は、卑劣な買春者ではなく悲劇の名士として名が残り、サンディは毒婦として名が残ってしまう。この物語の終幕はそんな印象があり、好きになれないのです。っていうか、あんな目にあったら殺すでしょ。特にヒモのあいつなんか刺しちゃってもしょうがないって。
実はあの老婆が〇〇だった!的な、どことなーくダリオ・アルジェントっぽい雰囲気も、テーマを鑑みて検討した結果というよりも、「やりたい!」が先立っちゃって、楽しんで作ってる感じが強く出てる気がして、ちょっと冷めました。エドガー・ライトさん、あなたは今回、あなたの趣味の世界でクローズしちゃいけないような物語を、あなた自身の手で書いてるんですよ。と一言いいたい。


イケてない点②ミスリードが幼稚

ジャッロへのオマージュで出来上がっている映画なので、映画が折り返す辺りで一応謎解きめいたことを始めます。夢で見た惨劇の光景を解き明かす、って書くとめちゃくちゃアルジェントっぽいっすけど、やはりジャッロがベースなので謎解きの前提がかなーりおぼろげな中を進んでいく。
ここで主人公がおぼろげにも関わらず、勢い良く謎を解こうとするもんだから、幾つかミスリードが出てくるんですが、ちょっとそれが幼稚でビックリしました。
一番ビックリしたのが、イギリスから来た男ことテレンス・スタンプの正体。エロイーズは、自分がサンディの髪型を真似た途端、テレンス・スタンプが自分に付きまとってくるようになったので、スタンプ氏が60年代のビジョンに現れるヒモ男だと確信。バイト先のバーでテレスタンプ氏を問い詰めると、スタンプ氏はなぜか車道のど真ん中に飛び出してから喋ってしまうもんだから、車に轢かれて重傷を負ってしまう。そこにバイト先の店長が現れて、スタンプ氏が昔は買春取締を担当する警官だったと語りだす。先に言えよ!っていうかエロイーズ、先に聞けよ!「あの常連のおじいちゃん、私に付きまとうんですけど何者なんですか?」って、スタンプ氏本人を人殺しだなんだってなじる前に、いっつも隣で仕事してる店長に一言聞けよ!
下宿先の大家の正体が、実は生き延びたサンディだったと判明するのは、大家の郵便物の宛名にサンディの本名(アレクサンドラ)が書いてあったから。しかもこれが判明するシーンでエロイーズが大家を尋ねる理由が、下宿の頭金を返してほしいから。またそれを唐突に「お金返してほしいなぁ・・・・・・」とかエロイーズが言い出すから、なんか本当に偶然判明しちゃったみたいに見える。いや、物語の表面上は偶然判明するテイを取るのは分かりますけど、そこまでの段取りもエロイーズの思いつきだったりして、なんか締まんないなぁ、みたいな感想です。っていうか、そこまでの謎解きが全部無意味になっちゃうし、思いつきで大家と会って真相が判明するんじゃ、物語がいつ終わっても良いことになっちゃう。こういうのって、大家側に策略があって呼び出されるか、もしくは何か必然的だったり運命的だったりするきっかけで、大家の正体が露見しなけきゃいけないと思うんですけど。
あと、謎解きの発端となる”ヒモ男に刺されるサンディ”という光景が、そもそも事実と異なっている。これがちょっと解せなくて、エロイーズは何を見てしまう能力を持ってるのかが、結局よくわからない。劇中では幽霊が見える、と表現されているけれど、エロイーズが見るサンディは一般的な意味での幽霊とは異なったわけで、男達の幽霊もどちらかといえば、サンディのトラウマの具現化みたいなイメージに近い。でも、その割に男達は「彼女を殺してくれ」とか言うから、誰視点のどんな存在が見えているのか、今ひとつピンとこない。
色々と愚痴を書きましたが、基本的にミスリードだったり謎解きの手つきがぎこちないというか、幼稚な感じがあって、エクスプロイテーション的に量産された映画じゃないんだから、その辺はもうちょっと捻ってほしいな、というのが正直な感想です。特にテレンス・スタンプのくだりは、はっきり言って下らない。こんなしょうもな勘違いで重傷負っちゃうんだから、スタンプ氏が可愛そうです。(ジョカスタのドラッグの件と言い、私はこの映画の倫理観が割と受け入れられません)
この辺りは「でも、アルジェントの謎解きはいっつもめちゃくちゃだぜ」と言われてしまえばそれまでですが、アルジェントの映画は魔女が出てきたり、そもそも謎解きとしての土俵が異なります。現実的な要素を並べておいて、隣の人に聞けば解決するような謎解きを用意するのは、ちょっとメジャー映画としては頂けません。
ちなみに、母親の姿が冒頭とラスト、つまり主人公の精神の安定を表現する存在として現れるあたりから察するに、医学的にはエロイーズは統合失調症と判断される状態なのでは、と感じています。描き方的には、そういう困った能力(≒症状)と上手く付き合うことで、彼女の人生は充実し、デザインの才も開花する、ということなのだと思います。なお、謎解きをしようとエロイーズが図書館に駆け込んだ時には、そんなことしたら症状が悪化しちゃうよ!と、たぶん製作者の狙いとは異なるであろう部分でハラハラしました。


長々と、どうしても我慢ならなかった脚本上のポイントを書きましたが、割とこの辺りは明確な疵瑕だと考えています。こういった部分に引っ掛かりを覚えたまま、超一流の撮影と編集でエドガー・ライトの欲しかったであろう画が連発されるので、なんかチグハグな印象がずっと拭えず、前のめりに鑑賞することが出来ませんでした。
演出面でも難を言うなら、最初の60年代の夢のシーンで演出的なテンションがほぼ最高を迎え、そこからずっと演出のトーンとテンションが横ばいになってるように感じました。その中で物語的にも予測可能な範囲の展開で夢と現実の繰り返しとなるため、映画全体が停滞しているような印象があります。中だるみってヤツです。全体二時間のうち、45時間〜1時間15分くらいのところがしんどかったです。何回か時計見ちゃいました。


あと、細々と気になっている点を列挙します。

・主人公の支援者は異性である必要はなかった。
物語のテーマ的にも、女性同士の連帯で描いた方が良かったと思います。
っていうか、エロイーズのキャラクターの一要素として男性への恐怖心が描かれているのに、なんで「それでも異性愛者ですし、恋愛も出来ます」みたいな言い訳じみたこと言わなきゃいけないのか。製作者側のヘテロセクシャルに向けたエクスキューズがあるように思えて、なーんかちょっと嫌な感じです。
あと、支援者が黒人男性の恋人として設定されていますが、主人公を無条件で肯定するキャラクターになっており、実はこのキャラクターにも人格が無いに等しい状態です。ちなみに、このキャラクターが果たしている役割は、古くは母親に割り振られがちな役割だったように思え、興味深いことに、ここではジェンダーイメージによる役割分担の逆転が起きています。

・アニャ・テイラー・ジョイをアイドルとして撮っている
本作の物語的な要請として、アニャ扮するサンディは絶対に魅力的な必要があります。ただ、ここでいう魅力的とは、物語のテーマ的に沿うと「エロイーズにとって魅力的に見える」ことです。つまりサンディは、エロイーズが自身の規範としたくなるような凛とした強さ、男の施しを必要としない意志を持った存在であるべきで、外見の美はその意志が表面に現れたものであるべきと考えます。それに対して、エドガー・ライトはあくまでもサンディをキュートでセクシーな、女性性の強烈なシンボル(≒アイドル)として演出しています。なおかつ、男が口の巧みさや力で操作できそうなどこか危うい感じも持ち合わせて描いています。この辺りが、そもそものサンディのキャラクターからして、男が作った、男に都合の良いキャラクターように感じられて、あまり印象が良くありません。強い意志を持った凛とした人が、抵抗するもエゲツない風俗産業に絡め取られてしまい、段々と自我を殺していく、といったように演出した方が良かったのではないか、と思います。いや、思い返すとそういう表現をしようとしていた節はあるのですが、いかんせんサンディが"騙された美少女"以上に書き込みがなされていないので、ちょっと弱い印象です。

・『反発』の要素が、物語の面白さをスポイルしているのではないか?
エドガー・ライトも公言する通り、本作はロマン・ポランスキーの『反発』から影響を受けています。私が強く影響を感じたのは、"セックスへの嫌悪"と"主人公が孤独におかれ、精神に不調をきたす"という二点です。セックスへの嫌悪は、ハロウィーンパーティ後のシーン、エロイーズのセックスとサンディの殺害がダブることで、非常に強く印象付けられます。セックスと刺殺のイメージがダブり、エロイーズの彼氏と殺人者もダブります。でも、この『反発』がやりたいシーンありきで、主人公の支援者が男性に設定されている感があり、全体から見るとマイナスに働いているように思えます。
また、主人公を孤立させ、精神の不調の原因となるのは、私がさっき散々書いたいじめっ子のジョカスタです。「あの子、二学期を待たずに手首切るわよ」とか言ってたし、ジョカスタ。これもまた『反発』を取り入れたいがためにジョカスタが大活躍しており、脚本的には大きな疵瑕を作る原因になっています。
結論すると、『反発』を取り入れるがために組まれた脚本的な段取りが、ことごとく私は引っ掛かってしまいました、という話です。


まとめ:華美な演出と貧相な脚本

良かった点に上げた撮影や編集、グレイトな主演女優二人、また金をかけた豪奢なセットをフル活用して現代に蘇らせたジャッロ・サイケ調の画作り、幻想と現実ともつれ込み合うような演出など、映画を体験する喜びとしては世界最高峰の仕上がりです。本作よりもケレンに満ちた美しさを保つ映画、そうそう作られないと思われます。
しかしその反面、脚本に粗が目立ち、特に語らんとするテーマを阻害する要素が幾つかあり、全体的に練り込み不足(もしくは現代パートの大幅なカット)は無視できません。でも、エドガー・ライトはそこはあまり気にしてないかもしれません。だって、明らかに演出に興味が向いてるんだもん。ジャッロがやれて、サイケがやれて、満足してるんだろうな、という気がしています。
邪推かもしれませんが、テーマが後付けっぽいんです。「スウィンギング・ロンドンの裏に、酷い女性への搾取があった」ということよりも、まずスウィンギング・ロンドンに金をかけて、それにジャッロ映画やりたいし、そしてソーホーの裏通りにはストリップクラブがあってさぁ・・・・・・みたいな、割と下世話な方向が発想のスタート地点だったんじゃないかな、という気がしちゃうんですよね。なんかそういう興味バラつきみたいのが、華美な演出と貧相な脚本に現れているように思います。
エドガー・ライト、ケレンと強い画作りとテンポで演出しちゃうから、実は人間のドラマ演出は出来ない人なのかもしれませんね。ドラマチックに演出は出来ても、そこに感情が流れるドラマは演出出来ない、というか。少なくとも今回は出来てなかった。『ベイビー・ドライバー』が良かったのは、感情を音楽で代弁させちゃったから。
エドガー・ライトに性的搾取のような社会的な題材や、女性の怒りや悲鳴の代弁は向かなかった。よくよく考えてみれば、この人は大きくない予算で「俺も大人にならなきゃなぁ・・・・・・」っていう映画を取り続けてた人で、本作はちょっと背伸びが失敗した感があります。だってこの人、結局全部マンガ演出にしちゃうんだもん。
次は緩いコメディを撮ってくださっても良いですよ。

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