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瞑想日記㉖【ヴィパッサナー瞑想における"心の平静さ"とは】

ヴィパッサナー瞑想とは心の平静さ

先日は京都ヴィパッサナー瞑想センターの瞑想コースに参加していました。

ヴィパッサナー瞑想センターは有名なので知っている方もいるかもしれませんが、朝の4時30分から夜の21時30分まで、12時間瞑想し続けるコースです。

基本は10日間コースなのですが、今回は予定が組めず、3泊4日のコースに参加しました。


このヴィパッサナー瞑想にはじめて参加したのは、2007年で、そこから今回で9回目の参加になります。

7年間くらい舞を伝える活動が忙しく、参加できていなかったのですが、また4年くらい前からヴィパッサナー瞑想に参加しだしました。


長い時間はかかりましたが、9回目ともなると、さすがにヴィパッサナー瞑想のシンプルかつ深い教えが実体験として積み重なってきました。


このヴィパッサナー瞑想の重要な鍵は、【心の平静さ】を保ち続けるという事だと思います。


ヴィパッサナー瞑想のやり方は、シンプルに自分の身体の感覚を頭から足先まで観察していくのですが、その時に【心の平静さ】を保ちながら行っていきます。

しかし、この瞑想法を実践してみると、私たちは知らないうちに身体の感覚に意識が向きすぎてしまい、【心の平静さ】から意識がそれてしまうのですが、それになかなか気が付くことができません。

しばらく意識が彷徨った後、ふと我に返り、再び【心の平静さ】に意識を戻そうとするのですが、また気づいたころには感覚に意識がとらわれてしまいます。


この彷徨う意識を【心の平静さ】にとどめることをヴィパッサナー瞑想では行うのですが、ではなぜ【心の平静さ】が大切なのでしょうか?


感覚に対する【心の平静さ】

私たちは感覚を感じた時に、その感覚に反応します。

その反応は、感覚に対する「渇望」か、感覚に対する「嫌悪」の2種類あるというのが、ヴィパッサナー瞑想の教えでもあり、お釈迦様が洞察した心の仕組みです。


感覚に対する「渇望」も「嫌悪」も、私たちの日常では自然な事のよう行っていますよね。

しかし、お釈迦様が洞察した苦しみの根本原因とは、この「感覚」を確かな真実として執着し、「渇望」や「嫌悪」として反応していることだと説きます。

感覚は、確かなもの、つまり私たちにとっては不変の真実のように感じますが、しかし、感覚の本性とは常に移り変わるものです。

好ましい感覚も嫌な感覚も、時と共に移り変わります。
美味しいという感覚は、食べ終わったらもうどこにもありません。

移り変わる、つまり、「生まれては消えていく」というのが感覚の本性であり、感覚とは確かなものではなく不確かなものだというのです。

そんな「生まれては消えていく」無常な感覚に執着し、「渇望」や「嫌悪」として反応することが、私たちの苦しみの原因となります。


この感覚に対して執着しない為には、反応しない心を鍛える必要があり、それが、感覚を観察しながらも、反応ではなく、【心の平静さ】を保つというヴィパッサナー瞑想法へと形作られていきました。


ですので、ヴィパッサナー瞑想では、全身の感覚を観察しながらもその感覚を「渇望」したり「嫌悪」せず、【心の平静さ】を保つことが、私たちの心の幸福にとって重要な鍵となると教えるのです。


【心の平静さ】の難しさ


しかし、長らく私がこのヴィパッサナー瞑想を続けていて理解できたのは、
「私は自分の【心の平静さ】が一体どこにあるのかをわかっていない」、という事実です。

【心の平静さ】という言葉は理解できるのですが、
心という抽象世界において、【平静さ】がどうやったら起こるのか、そもそも【平静さ】を保つには、どうしたらよいかがわからないのです。

物質世界を静かにするには、静かなところに行けば良いでしょう。

静かなところに”行く”には、「縦・横・斜め」という3次元のルールを理解しているから、はじめて行く方法がわかります。

しかし、物質次元にある「縦・横・斜め」という3次元は、心の抽象世界には存在していなく、物質世界と心という抽象世界は、確かに繋がっているのですがその次元は異なっているのです。


では、心という抽象世界はどんな世界でしょうか?

心には物質世界のルールに縛られていないので、夢のように無秩序であり、混沌とした世界といえます。

だから、私たちにも経験のある妄想や夢などは、物質世界のルールを超えて無秩序に展開していくと思います。


そんな混沌とした心の中で、【平静さ】は一体どこにあり、どう保てば良いのでしょうか?


瞑想は実践して初めてわかるものなので、言葉で【心の平静さ】を教えることはできないのですが、しかしわずかに”指し示すこと”はできるかもしれません。


心のしくみ


心という混沌とした抽象世界の中で、【平静さ】を保つには、
「心の中身」と「心」は違う、
という事を探究するのが道になると経験しています。

私たちがいつも相手にしているのは「心の中身」の方です。

それは、感じていることの「中身」の方であり、「言葉で言い表せるもの」です。

しかし、ヴィパッサナー瞑想の教えは「心の中身の平静さ」ではなく「心の平静さ」なんだと、私の探究は深まっていきました。

これは、言葉遊びをしているわけではなく、箱と箱の中身が違うように、「心」と「心の中身」は次元が違うのです。


今まで「心の中身」と「心」を曖昧に認識してはいないでしょうか?

二つは、繋がっているのですが、「心の中身は」抽象度が低い次元にあり、「心」はより抽象度が高い次元になります。

それは、例えれば自分の家と宇宙の違いのように、繋がっているのですが私たちにとってより具体的なもの(自分の家)と、より抽象的なもの(宇宙)の違いとなります。


心は、すべてが同じ次元ではなく、抽象度が低い(より物質に近い)次元と抽象度が高い次元という秩序が存在しているというのが、私の探究の経験です。

そして、【心の平静さ】とは、抽象度の高い「心」そのものに意識を届けていくことで見つかると思います。

仮にこの【心の平静さ】を物質世界のルールで例えるなら、東京の街の喧騒を、宇宙から眺めるという意識に近いのかなと思います。

そして、この抽象度の高い次元に行けば行くほど、「本来の私であるもの」は存在しているのだと実感しています。


ただ、瞑想は常に実践による探究なので、言葉だけでは余計に道から外れてしまうかもしれません。

「自分を悟りに導くものは、自分しかいない」とお説きになったのも、お釈迦様です。

「心」と「心の中身」は違うのかな?、くらいで、ぜひ自分なりで探究してみていただけたらと思います。

今の私の探究も、また新たな発見へと変化していくのだと思っています。

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