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感情が記憶を書き換える
ミニストーリー
営業2課の課員である小林由美は、昼休みを利用して人事部の相談窓口を訪れた。その顔には疲労と怒りが浮かんでいた。人事担当の田中明美が応対し、落ち着いた声で話しかけた。
「こんにちは、小林さん。今日はどうされましたか?」
小林は深いため息をつき、硬い表情のまま切り出した。「先日の会議で、課長が私に向かって『お前、本当にバカじゃないのか?』って言ったんです。正直、もう耐えられません」
田中は驚いた表情を見せたが、冷静を保とうと努めた。「そうでしたか…。具体的にどのような状況で、どんな言葉を使われたか、詳しく教えていただけますか?」
小林は一瞬戸惑ったが、再び口を開いた。「会議で私が提案した内容に対して、課長がすごく厳しい口調で否定してきたんです。それだけならまだしも、『バカ』って言われるなんて…。みんなの前でそんなことを言われたら、本当に恥ずかしくて…」
田中は小林の言葉を一つひとつ丁寧に聞き取った。「それは辛い思いをされたのですね。他の人も同じ場にいたとのことですが、その方たちの反応について覚えていることはありますか?」
小林は少し考え込み、「正直、他の人の顔なんて見る余裕はありませんでした。でも、課長があんなことを言ったのは確かです」と断言した。
田中は小林の同意を得て、課長の山口誠一に直接話を聞くことにした。小林さんの様子からは嘘を言っているようには見えなかったが、もしかしたら山口課長の立場からは別の世界が見えているかもしれないと、慎重に状況確認を始めた。山口は少し険しい表情を浮かべながらも、落ち着いて椅子に座った。
「山口課長、お忙しいところありがとうございます。今日は、先日の会議についてお話を伺いたいのです」と田中が切り出すと、山口は頷いた。
「はい、何か問題がありましたか?」
「実は…」一つ間を置いて田中は続けた。「小林さんが、会議中に課長から『お前、本当にバカじゃないのか?』と言われたと感じ、傷ついたとおっしゃっています。その場での状況について覚えていることを教えていただけますか?」
山口は眉をひそめ、考え込んだ。「そんな言葉を使った記憶はありません。ただ、小林さんの提案に対して厳しく指摘したのは事実です。でも、『バカ』なんて言葉は断じて使っていません」
田中は山口の言葉を受け止めつつ、「そうですか…。ただ、小林さんはその発言を非常に辛く感じておられるようです。課長としても、言葉遣いに関して何か思い当たる点はありませんか?」ともう一度尋ねた。
山口は一瞬ため息をつき、「確かに、厳しい口調だったかもしれません。でも、部長の前で通らないような案をそのまま出すわけにはいかない。あそこでしっかり指摘するのは私の責任だと思っています」
課長も嘘をついているようには見えないので、それ以上は追求せずに引き下がることにした。
田中は小林と山口、双方の言い分が食い違うことを確認し、同じ会議に参加していた他のメンバーへの聞き取りを開始することにした。
『どちらも嘘をついているようには見えない』田中はそう自分に言い聞かせながら、聞き取りを進めた。
数日後、複数の同僚から話を聞いた結果、山口が厳しい口調で指摘したことは事実だったものの、「暴言」とされるような具体的な言葉は確認できなかった。あるメンバーはこう語った。
「確かに課長は興奮しているようすでしたが、『バカ』という言葉は記憶にないですし、怒りをぶつけているというようにも感じませんでした。ただ、内容が小林さんが一生懸命頑張っていたプロジェクトの根幹に関わる部分の指摘だったので、言われてかなり動揺していたのは覚えています。」
田中は他のスタッフに聞いたことをまとめて、改めて小林さんに伝えることにした。最初は「そんなことないです」と強く否定していたものの、それまでの経緯や、プロジェクトにかける思いを丁寧に聞き取っていくうちに、小林の気持ちも落ち着いてきた。
結局、本人の記憶が修正されることはなかったものの、もう二度と課長と話したくないと言っていた気持ちに変化が生じ、頑張ってそのプロジェクトに向き合おうと前向きな気持ちで帰っていった。
「聞いていただいてありがとうございました。また何かこまったら相談にきてもいいですか?」
頭を下げる小林に、田中は笑顔で答えた。
「もちろんですよ。いつでも相談に来てください。プロジェクト頑張ってくださいね」
解説
このケースは、職場で起こりがちな誤解や感情のすれ違いが、どのように拡大していくかを示しています。ここで注目すべきは、 「感情が記憶を歪める」 という人間の特性です。
ファクトチェックの重要性
感情的な出来事は、記憶に強く残る一方で、その内容が主観的に解釈されやすくなります。小林さんが「暴言」と感じたのも、課長の厳しい口調が強く印象に残り、それが言葉として記憶に「すり替えられた」可能性があります。
そのため、 客観的な事実確認 (ファクトチェック)は、感情的な誤解を防ぐ上で非常に重要です。
先の兵庫県知事戦での情報も事実と解釈が入り混じっている状況でした。テレビや新聞といったマスメディアですらわずかな情報から拡大解釈した議論で決めつけていたように感じます。それくらい事実と解釈をわけるのは難しいのです。
感情が記憶を書きかえる
このテーマについて詳しく知りたい方には、書籍 "『何回説明しても伝わらない』はなぜ起こるのか? 認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策" がお勧めです。
この書籍では、感情が記憶や認識をどのように歪めるのかについて、認知科学的な視点から解説されています。
ぜひ一読してみてください。
双方の気持ちに寄り添う
今回のケースでは、小林さんが「傷ついた」と感じた事実は否定されるべきではありません。一方で、山口課長も暴言を吐いた加害者と決めつけられるのは理不尽です。一度すれ違いが起きてしまうと、関係性の修復には膨大なエネルギーと時間が必要になってしまいます。
この人事部が行ったように、両者の意見を公平に聞き取り、事実を冷静に伝えることが信頼構築の鍵となります。
職場の教訓
感情が強く絡む場面ほど、事実と異なる形で記憶されることがあるため、一方的な意見に基づいて判断せず、複数の視点から情報を集める必要があります。ついつい信頼している人からの情報であれば信じてしまいがちですが、 何事も多面的に確認することを心がけることが重要です。
人は感情的な生き物です。だれもが完璧に論理的に行動できるわけではありませんが、感情に左右されることなく事実を確認する姿勢は、職場の心理的安全性を高めるために欠かせない要素となるでしょう。
傷ついた人に寄り添う部署
一度強く記憶したものはなかなか修正することは少ないです。傷ついた感情とリンクしてその記憶がさらに強固になってしまいます。
その記憶を無理に修正するのではなく、その人がその時に感じたことに共感して、親身に話を聞くことが重要です。だれか一人でも親身になって話を聞いてくれると思うだけで、人は救われた気持ちになるものなのです。
社内の厳しいディスカッションが繰り広げられている中で、さまざまなすれ違いはどうしても生じてしまいます。
そんな中、感情を受け止めてくれて、仲裁してくれる。そういう部署があると社内での人間関係がもっとよくなることでしょう。
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