道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉜頭の中の「払子」は「払子」ではない。「存在」は頭の中だけでは証明できない。
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道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉜頭の中の「払子」は「払子」ではない。「存在」は頭の中だけでは証明できない。
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。
本記事では『普勧坐禅儀』本文の、
払拳棒喝(ほっけんぼうかつ)を挙(こ)するの証契(しょうかい)も、未(いま)だ是れ思量分別の能く解(げ)する所にあらず。
という部分を解説しています。
本記事のポイント
・「払拳棒喝」というのはそれぞれ単語を繋ぎ合わせたもので、それぞれに過去の仏祖方のエピソードがある。
・「払拳棒喝」の「払」は師匠である青原行思禅師と弟子の石頭希遷禅師によるエピソード。
・「払拳棒喝」の「払」は「払子」の「払」。
・世の中のあらゆるものが一秒後には姿を変え「無常」であり続けている。
・本当の「払子」というのは「今ここの払子」を除いてどこにも存在しない。
・存在とは「頭」の中で証明するのではなく、目の間に実物として展開しているから「存在」している。
是非お読みください。
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