減税と規制緩和の政治家 藤原仲麻呂
藤原仲麻呂(恵美押勝)は、一度は位人臣を極めながら謀反を起こして滅亡した叛臣として教科書に記載されています。しかし、その人となりを詳細に見ていくと、儒学に傾倒し仁政を志した政治家、数学に長けた日本の最初?のテクノクラート宰相という側面を発見することができます。
数学と儒学を結合させて、減税と規制緩和を実行した政治家として、大師藤原仲麻呂を見ていきます。
1 早熟の理系秀才
藤原仲麻呂は不比等の嫡男武智麻呂の次男として慶雲3(706)年に生まれました。当代一の漢学者淡海三船から「性識聡敏」(生まれつき賢い)と評されていることから、早熟の秀才だったと思われます。彼の学識で特徴的なのは、儒学という官人の基本教養に加えて、母方の一族からの薫陶を受け、算道(実用数学)に長けていたことです。このことは、その後の官人・政治家としての経歴・政策に大きく関わっていくことになります。
2 実務官人としての出発
仲麻呂は25歳で”大学寮少允”として官人キャリアを歩み始めます。家を継ぐことを期待されていた兄の豊成が10代からエリートコースに乗ったのとは対蹠的な出発でした。「次男なのだから、好きな学問の道を気楽に歩ませてやろう」という武智麻呂の親心だったと推定されています。その後も、豊成と仲麻呂は対照的な出世の階梯を登っていきます。
3 民部省で算道の才を生かす
天平13(741)年、従四位下民部大輔(諸説あり)に就任した仲麻呂は河内と摂津の間を流れる淀川の堤防の境界争いを調停するために現地へ派遣されます。当時の算道には測量術も含まれていましたから、まさに適材適所でした。見事な手腕を発揮した仲麻呂は民部卿巨勢奈弓麻呂に見込まれ、その転任と同時に民部卿に就任します。民部卿としての仲麻呂は恭仁京の造営でもその算道の才を生かし、諸国から集められた労働者や諸物資の効率的な運用を主導したと思われます。
4 墾田永年私財法を立案する(諸説あり)
天平15(743)年、仲麻呂は参議に昇進し、国政に参画できる地位を得ます。ほぼそれと同時に”墾田永年私財法”が発布されます。この法令を誰が主導したかについては、特に定説がありませんが、当時、民部卿だった仲麻呂が関係していると考えるのが自然です。(もう一つ傍証がありますが、それは最後で触れます)
墾田永年私財法は律令制崩壊の始まりとして語られますが、もう一つ、大仏建立の財源対策としての側面があります。
(1)墾田永年私財法ができるまで
班田収受法は唐の均田制に範をとったと言われます。しかし、唐の均田制が、私有が認められた永業田や開墾予定地(一定まで永業田にできた)を含む制度だったのに対し、班田収受は、私有田を一切認めず、現に耕作可能な熟田のみを与えるという制度でした。この規制でがんじがらめになった制度設計のため、人口増加に熟田が追い付かないという状況が早々に生じてしまいます。
このため、養老6(722)年に”百万町歩開墾計画”が立案されます。しかし、この計画は実行可能性がまったく計算されておらず、インセンティブは勲位という威信財の授与のみだったことから、すぐに立ち消えになります。
翌養老7(723)年、現実的な開墾奨励策として三世一身法が打ち出されます。この法令は社会的反響も大きく、中央貴族、寺院、地方有力層らによる開墾が始まります、この大開墾を仏教の布教とともに支援したのが行基です。しかし、天平7(735)九州を皮切りに全国で天然痘が流行します。3年間続いた流行で失われた人口は1/3に達したとも言われています。
(2)大仏建立と墾田永年私財法
疫病とその後に続いた内乱を憂えた聖武天皇は大仏建立を企図するようになります。しかし、当時の財政状況は、疫病による打撃に加え、恭仁京の造営、諸国国分寺国分尼寺の建立が進行しており、財源の余裕などまったくありませんでした。当時の政権首班橘諸兄も大仏建立には消極的な立場でした。
そこで増収策として提案されたのが、”墾田永年私財法”です。三世一身法で開墾された土地はあるいは収公の期限が近づき管理がおろそかになり、あるいは耕作者の死亡で荒れていました。
規制でがんじがらめになっている班田収受法を本格的に緩和し、民間活力を引き出すことで、増収に繋げようというのが、この法令の実際の意図なのです。実際にどの程度の増収が見込めるかの積算に、仲麻呂の算道の才が生かされ、説得力を持たせたことは間違いないでしょう。
この政策で仲麻呂は聖武天皇と叔母の光明皇后から絶大な信頼を得ることになります。(大仏建立には民間の勧進が大きな役割を果たしたと言われます。それ自体は間違いないのですが、勧進をあてに財源には目を瞑って見切り発車するほど奈良時代の政治家はバカではありませんし、規制緩和で生まれた民間活力があったからこそ勧進も順調に進んだと思います。)
5 仲麻呂政権での減税・撫民政策
ここからは、仲麻呂が政権首班についた天平宝字元(757)年から4年にかけて実施された政策を見ていきます。
(1)減税政策
まず、中男と正丁の年齢をそれぞれ1年繰り下げました。これは要するに無税の期間を1年、75%減税の期間を1年設けることになります。
続いて、地方の役所での雑徭(労役税)を60→30日に半減、調庸についても、毎年諸国から一郡を選んで免除します。東国からの防人徴募を停止したことも軍役税の軽減策と見てよいでしょう。
(2)撫民政策
・問民苦使(もみくし)の派遣
天平宝字2(758)年正月、”民の苦しみを巡り問う”ために問民苦使が各道に派遣されています。議政官(今の大臣)の子弟が派遣されたようです。民情視察と窮民への施しがその任務とされました。
・国司の任期延長と巡察使
国司の任期をこれまでの4年から6年に延長するとともに、3年ごとに監察業務を行う巡察使を派遣することとしました。巡察使は国司の監察とともに、無許可で開墾された隠田(脱税田)の摘発にもあたりました。収公された田は主に班田の増加に充てられた他貧民へ貸し出されました。国司の任期延長には、班田拡大の意図もあり(国司が開墾した田は任期終了後に収公された)、仲麻呂が律令制をぶち壊そうとして墾田永年私財法をつくったわけでないことがわかります。
(1)と(2)は、仲麻呂の儒学に傾倒した”仁政”家としての側面が色濃く出た政策でしたが、続いて、算道に明るいテクノクラートとしての政策を見ていきます。
(3)地方財源の整理
詳しく書くと難しくなるので省きますが、地方税源である出挙の制度を整理し、国司が不正をやりにくくしています。又、災害用の備蓄食料である”義倉”についても、運用法を統一し、備蓄量の増加を図っています。これらは細かい数字の操作により運用可能となるもので、仲麻呂の得意とするところでした。
(4)新銭鋳造
天平宝字4(760)年、金銀銅の3種からなる新貨幣を発行します。これは、減税政策に伴う減収を補うとともに東北経営、新羅征討等に充てるための貨幣発行益を得るために発行されたと考えられています。各新銭は和同開珎に比して、それぞれ10,100,1000倍の価値を有するとされました。普通ならこんなことをしようとしても民間経済には相手にされませんが、大仏建立で金銀銅が払底していた状況でしたから、かなり、実効性があったようです。(諸説あり)
6 「仲麻呂の乱」後の仲麻呂政策
仲麻呂自身は、天平宝字8(764)年の「仲麻呂の乱」(実態は孝謙上皇の乱)で敗死してしまいます。しかし、彼の政策はその多くが後世に引き継がれていくことになります。しかし、墾田永年私財法だけは翌天平神護元(765)年に停止されます。これは、坊主憎けりゃなんとかで、墾田永年私財法の制定を仲麻呂が主導した傍証となるのではないか、と一部の専門家は主張されています。