ハイデガー 白川静 語源

 「存在と時間」って本当にくだらない本で、一ページも読まなくても構わない。これが流行ったのは当時のヨーロッパの不穏な空気に「実存的覚醒」みたいなものをハイデガーがキリスト教神学を通俗化して語ったところにあると思う。「存在と時間」について書いている文章は「死を想って生きろ」のようなありきたりの自己啓発の文章ばかりで本当につまらない。ハイデガーが死を強調したのは「現存在(人間)の実存の可能性の全て」を考察したかったからであって、説教がしたかったわけではない。そしてなぜ人間の実存を考察したかったかというと「存在の意味」を解明したいからだ。ニーチェも全く意味不明な受容のされ方をしているが、ハイデガーのほうが酷い。

 ハイデガーはナチスに関わっていたのでヨーロッパでその哲学が殺されかけているらしい。ドイツでハイデガーの研究をすると博士になれなくなるらしい。後期ハイデガーの著作が高価すぎて今まで買えなかったのだけれど、奮発して「哲学への寄与論考」を購入してしまった。
 轟という学者や中昌という学者の後期ハイデガーについての本があるが、全然芯を食ってない気がした。後期ハイデガーを読んでいないのにそういった批判をするのはおかしいと思われるかもしれないが、日下部吉信という人の「ギリシア哲学30講」を読んで、ハイデガーという人は本当に本質的だと感じた。前期ギリシア哲学には「存在」の哲学があったのだが、ピュタゴラス=プラトンがその「存在」の哲学に「主観」の原理を持ち込むことによって、近代の種が撒かれた。その主観性原理がキリスト教に接続される。「神」という「巨大な主観」があったが、神が死ぬことによって各々の「主観」が「対象を目の前に置く」という仕方で確立される。この「対象を目の前に置く」という主観の在り方が近代科学を形作っている。

 ハイデガーの形而上学入門は安価なので読んだのだが、中期の思想と言われる。ハイデガーはよく「語源」に遡ってそこから思索を始めるのだが、このことは「言葉遊び」のようにしか捉えられていない。そこに注目している学者を見たことがないのだが「語源」というのは非常に重要だ。少し引用する。

 全体としての存在者そのものを問うということに真の原初を与えたのはギリシア人であったが、あの西洋哲学の最初の、そして決定的な展開期においては、存在者はphysisと名付けられた。存在者を言い表すこのギリシアの根本語は普通「自然」と訳される。ラテン語のnaturaが使われているわけであるが、このラテン語はもともと「生まれる」、「誕生」を意味する。しかしこのラテン語訳ではphysisというギリシア語の初めの意味は既に押しのけられ、このギリシア語の独特の哲学的呼称力は損なわれている。ギリシア語のラテン語訳というこのことは、決してどうでもよいこと、痛くも痒くもないことではなくて、ギリシア哲学の根源的な本質を遮断して隔離してしまうという一連の出来事の一段階をなすものである。こんどはこのラテン語訳がキリスト教とキリスト教的中世とに対して基準的になった。このキリスト教がさらに近代哲学にまで伝わってきたのである。だから近代哲学は中世の概念世界の中で動き、そこから、いま一般に通用しているいろいろな表象や概念語を作っている。

形而上学入門
マルティン・ハイデガー

 前の記事で書いた鈴木大拙と同じようなことを言っている。physisというのは元々発現し、滞在する支配、のような意味だったらしい。だからnaturaとは全く違う。naturaにはキリスト教的創造(神の主観)のような思考の重力が存在しているので、physisにまで遡って哲学しなければ近代の「外部」に立つことができない。ハイデガーは造語が多いと言われるが、「現にある言葉」を使っている限り、その重力から逃れられない。例えばハイデガーは現象学を受け継ぎつつも、絶対に「主観」や「意識」という言葉を使わずに「現存在」という言葉を使い続けた。主観や意識という言葉を使うとその圏内でしか思考できないからだ。

 僕はドイツ語もギリシア語もラテン語も分からないので、「漢字」の語源を勉強しようと思った。白川静という名前は知っていて、そのうち勉強しようと思っていてタイミングがないままだったけれど、ちょうど問題意識が語源に向いてきたので辞書を二つ購入した。「漢字の成り立ち」の権威であるらしい。まだAmazonから届いていないのでなんとも言えないが、考えるヒントがあるかもしれない。読み物としても普通に面白そうだ。

 古代や中世の生活様式や考え方はよく分からない。語源や言葉というものが思考を規定している。古代ギリシアで有名な言葉に「ヘラス」と「バルバロイ」というのがある。バルバロイというのは異民族という意味で、元々「わけのわからない言葉を話す人」という意味だったらしい。ギリシア人はバルバロイを軽蔑していたらしいが、現代人は外国語を話す人を軽蔑するという感受性は分からない。
 ニーチェも道徳の系譜学を「良い/悪い」の語源に遡って行っている。言葉の源というのはめっちゃ重要なんじゃないか。
 単語や文法というのは「内部」にいる人から見れば「自明」だ。現代日本語の「自明さ」の外に出たい。現代日本は西洋化されていると考えているので「漢字」というものを勉強するのはなかなか面白いんじゃないかと思う。古代や中世の中国や日本の「自明」を使う。別の言語ゲームを眺める。「相対化」だけではなく、その「言葉」を使って思考できたら最高だと思うが、それは結構骨が折れそうだ。
 高校の古文単語帳なども眺めていたら面白い。どこかから言葉を持ってこないと「この重力場」の外部で思考できないと感じる。不毛だ。

 そしてこの多様性は固定されていて一度に与えられるものではなく、新しい型の言語、いわば新しい言語ゲームが生まれ、別の言語ゲームが廃れて、忘れられてゆく。
 ここで「言語ゲーム」という言葉は、言葉を話すことがある活動の一部、ある生活の形の一部であることを強調するために用いられている。

哲学探究
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

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げんにび
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