20200201 キタクヴ・アーベント
高等学校という学び舎には、青春の爽やかな香りが漂っていた。
泥塗れになりながら白球を追いかける丸坊主、緑青駆けて転げて痛がり再び走り出すア式蹴球者、ビブスを靡かせるジョーダン擬き、アンド・ソー・オン……。
「そこで僕を迎え入れるのは、一体どんな青春なのだろう?」
僕は心を躍らせ、文武両道を胸に誓いながら、桜舞う正門を通り抜けていく。
そこで僕を待ち惚けていたのは、誤った希釈でしゃびしゃびになった青春だった。饐えに饐えた青春の香りがむんむんと漂っている。
それはもう刺激的で、扇情的が過ぎる。
それはもう退屈などという言葉では形容し切れない。
歴史の浅い公立高校は薄汚い外壁を晒して輝いている。真っ黒の学ランは未だテカりを得ていない。そこでたくさんの同胞は散っていった——。
◯
僕が思うに、”アンニュイ”という言葉が持つ毒素に侵されてしまう時期は誰にだって訪れる筈で。そして、そいつを免れる術などなく、中毒症状に陥るのも仕方がない。
勿論、僕自身も例に漏れることがなく、伊集院光氏の言った”中二病”の罹患者となってしまったのは初等教育を終えるか終えないかの頃だった。僕は周りよりもほんの一寸だけおませだったのだ。
小学生の経典として高名を轟かせる”かいけつゾロリ”に倣い、僕は不真面目に対して誰よりも真摯に向き合っていた。
「視床下部管制室より伝令です!」
「何ィ!? 直ぐ様に、中央ニューロン通信基地から鳩を飛ばせ! 中枢から末梢神経まで余すことなく、一言一句違わず伝えるのだ!」
「合点承知の助であります!」
「で? 管制はなんて?」
「『坊ちゃんよ、本能のままに振舞うのだ!』だそうです」
伝令をきっかりしゃっきりぽんと受け止めた所為で、僕は理性持たざる獣宜しく、サボタージュに一意専心、孜々忽々の虜囚になっていく。日々はセメトリーへと驀地だ!
慚愧の鬼は過去を振り返り、こう言った。
「残念である! 無念である! 臆、望み薄だが、よりよい来世を翹首するばかりだ……」
いくら歳を取ってもサボタージュは僕を離してくれない。
◯
そうこうとしている内に遅刻をしたり、居眠ったり、授業をフケったり、課題を見なかったことにしたりと、可愛らしい不行跡に精励恪勤することが僕のアイデンティティになっていた。僕は紛うことなき落ちこぼれの烙印を押される。僕はアンニュイ道から逸れ、気づけばただの懶惰者になり腐っていた。糠釘破廉恥サイコモンキーの完成はこの時だった。
中等教育修了間際に僕が持っていた内申点は、それはもううだつの上がらないもので、低迷とは言わないまでも、芳しいとは口唇がひび割れても言える数値ではなかった。相対評価時代であれば完全無欠のメジアンを絶対評価で得た僕は、持ち前である”それなりの要領のよさ”をメインウエポンとして腰に携え、どうにかこうにかのチンマリ努力を行った。
その甲斐あってか、隣市に位置する、進学校という恥名を声高に自称していた少々痛い普通科高等学校への片道切符を掴み取った。「端からお前の内申点じゃあ無理だ」と、僕を鼻でせせら笑っていた教師陣の鼻を明かしたようで、ほんの一寸いい気分だった。
しかし、僕の入学先は少々痛い。否、どれだけ詰襟のホックを締めても、気持ちと腑抜けた顔面が引き締まることのない僕の受け入れに許可したのだから、大分と痛い。偏差値だって鳴かず飛ばずに違いない。甘塩っぱいスクールライフという希望がある筈だと夢見た学び舎が、“公立・陸のアルカトラズ高等学校”だったと気づくまで、そう時間はかからなかった。
合格発表の日から既にカウントダウンは始まっていた。ツーカウントもあれば十分だ。
◯
陸のアルカトラズ高等学校に収監されてから、そこそこに時間が経ち、入部受付期間がやってきた。未だ、薔薇色スクールライフを夢見がちな薄盆暗は、「さて、何部の見学に行こうか」と、僕自身の活躍の場について模索していた。
放課後になって、昇降口から外へ出る。
整列する下駄箱から真っ白のスタンスミスを取り出し、緑色のクソダサい便所サンダル(上履きとして各学年に赤、青、緑が割りふられていた)から履き替える。同郷から進学をした友人と談笑交えながら、屋外へと足を踏み出す。
「なあ、今日はどこに見学に行こうか」と、友人が僕に語りかける。
「どうしようね——」
僕が、彼に返答をしようと思った瞬間だった。
僕の周辺視野が捉える漆黒の学ラン。宛らスーツお召しのブルース・ウェインが如く去っていく。
ギトギトの一年生が使う下駄箱から数列向こう、その影から飛び出した彼は、一目散に駐輪場へと駆け出していく。その様はAKIRAで観た金田のバイク宜しく尾を引いた。僕は、階段を上り、垣根の向こうへ消えていく先輩の後ろ姿に目を奪われた。
これは運命の出会いだった。
その後、自宅へと帰り、かちかちのベッドに寝転がりながら目蓋を落としても、孤軍奮闘する帰宅部員の勇姿が僕の網膜から焼きついて離れない。
孤高の存在は、僕の目指すべき理想像は、そこにあった。
◯
僕は間に髪を容れず行動を起こした。
翌日の放課後、僕は帰宅途中に通る一等大きな川に架かった、一等大きなアーチ橋のど真ん中で屹立していた。そこで入部届けを紙飛行機へと折り変える。裏も表も白紙のままのそいつをメーヴェと名付けて、僕は大空に向けて投げ離した。
「飛べ! ずっと、地平線の向こうまで——」
——僕のボーイングは曇り空を割ることもなく、垂直降下をし、川面を揺らして流れていった。米粒より小さくなるまで眺めていた紙屑は、やがて見えなくなっていく。ふと、不法投棄の事実に気づいた僕は、泡食ってママチャリに跨り、遮二無二ペダルを漕いで家まで帰った。僕は3B LAB.☆Sを聴くことを止めた。
◯
僕は個人競技の魅力に取り憑かれていた。
放課後の教室から自宅までのタイムアタックに夢中になった。ブリジストン謹製の真っ赤なママチャリを疾駆させ、僕はシューマッハやライコネンの後背を追いかけていた。山口百恵も驚きのあまりプレイバックしたことだろう。
最速こそが僕の目指す帰宅スタイルだと信じて疑わなかった。
僕は速さを求めていた。”スピードの向こう側“の領域を覗いてみたかった。今井絵理子は議員になって不貞を働いた。お沙汰的には、Go! Go! Heavenとなるには難しそうだ。僕は島袋寛子が好きだった。
ひと月、ふた月と誰と競うでもない、僕の孤独なレースは続いていた。また、桜井和寿もお沙汰的には以下同文だ。僕はいつだってギリギリボーイでありたかった。
そんなスピード狂の僕にも転機が訪れる。それは僕が縮まることのない自己ベストに身悶えていたある日のこと。
下校時に、僕を帰宅部という魔窟へ誘った先輩を見つけた。僕はふと思い立ち、彼をストーキングすることにした。彼は自転車を押しながら、校舎の斜向かいに建立する周辺住民御用達サイズのスーパーマーケットに向かっていった。そうして入り口傍の駐輪場に自転車を止めると、移動販売のおば様に話しかけた。
彼は何やら白い紙袋に包まれた怪しげな荷物を受け取った。それを眺めながら、「よもや、あれはヤバいアレで、彼が世に言うスマグラーなのではあるまいか?」と戯けたアテレコに興じていた。その後、これまた入り口脇のベンチに腰掛けた彼は、手に取ったそれの封を破り、齧りつく。それは、ただのコロッケだった。僕は衝撃を受けた。
「速さに意味などない。速さだけなら陸上部にでも任せておけばいい。帰宅部に必要なものは美しさなのだ。技術と演技構成の要素が組み合わさっての帰宅部なのだ」
と、彼はその姿を僕に見せることで啓示を与えたに他ならなかった。
それからの僕は帰宅技術の研究に明け暮れた。来る日も行く日も、僕は我武者羅に帰宅技術の研鑽に努めた。のめり込めばのめり込むほどに蘊奥は遠ざかっていく。
最高の帰宅とは、どのようなものだろうか?
僕は先輩と同じようにコロッケを食べてみた。図書館に寄って少しばかり課題を進めてみた。晩飯前だというのに近くのラーメンチェーン店で大盛りの注文をしてみた。古本屋で立ち読みをした。友人がコンビニエンスストアで買ったソフトクリームを、「一口頂戴!」と言ってコーンから上全部を一口に頬張った。登校中に下校をしてみた。公園で音楽を聴きながら空を見上げてみた。
駄目だ、どうにもしっくりとこない。僕は高校一年生の夏休みを前にして、帰宅技術の天井にぶち当たってしまった。
僕は嘆いた。
「これでは全国大会に出られる訳がない!」
僕は、はたと気づく。
「もしや、これがイップスというものなのか! 運動音痴板つきのこの僕が、この歳まで知ることがなかったイップスに直面している! 今、僕はそれを初めて体感している!」
そう思うとほんの僅かばかりの怡悦があって、なんだか誇らしげな気分になった。
僕は初めて熱中できるものを見つけたのだ。帰宅部に入ってよかった。
だからと言って、このような為体を晒していい筈がない。僕は帰宅部期待のエースなのだ。沢山の期待を背負って励んでいる。期待が重すぎて肩が外れそうだった。
◯
この停滞期から脱するには、先人の知恵を借りなければならないだろう。しかし、先人とは一体全体誰なんだい? 僕は懊悩煩悶しながら、先人の行方を探した。帰宅途中、日々のトレーニングを兼ねて救済の手立てを探し続けていた。
温故知新、因循姑息。藁にも縋るつもりで、先人を探した。
僕は焦り過ぎていたのかも知らない。そう思った僕は、ある日に帰り道を逸れてみた。大きく遠回りをした。急がば回れ、急いてはことを仕損じる。そんな諺さえも忘れていた。
今日ぐらい、帰宅部の活動から解放されても誰も文句は言うまい。僕は快さを覚えながら未知の道をひたチャリ漕ぐ。新鮮な景色が続いていく。ただ長く続くだけの直線の県道には、田圃が広がり、ぽつぽつと小商店があった。そして、時々現れる工場を通り過ぎていく。上下の殆どを青と緑で分けた世界は僕一人だった。どれもこれも似たような田舎道だったけれど、あれもこれも知らないものが見える。
たらたらとしたポタリングに興じていた僕は、道端で横臥する何かしらを見つける。
「あれは! 僕が! クソガキの頃に! 夢中になって! 探していた! アレだ!」
羞恥のあまりに顔が燃え出して、三斗の冷汗で消火を繰り返す話なのだけれど、僕は糠釘破廉恥サイコモンキーであったために、同様の猿公フレンドらと捨て成人誌というトレジャーに心奪われた時期があった。その頃の阿呆この上ない記憶がフラッシュバックする。
伊賀者が如く、僕は忍び、居眠り中の捨て成人誌へと近づいていく。そいつの傍まで進み、静止した僕は、
「あれ、今何時だっけ」
と、わざとらしく独り言ちながら腕時計を覗き込む。
「あれ、あの、あれはどこに入れたっけ」
と、わざとらしく独り言ちながら自転車の前かごに突っ込んだスクールバッグの中身を確かめる。
「あれ、この道でいいよなぁ」
と、わざとらしく独り言ちながら前後に伸びた県道を見渡した。どうやら辺りにペデストリアンやオートモービルの影はないらしい。
僕はスタンスミスの爪先でそいつにちょいと触れ、頁を捲ろうと試みた。
「——捲れない! こいつ、雨に晒され過ぎて、溶けて固まっちまったんだ!」
別に安パルプが捲れなくたってよかった。中身が見たかった訳ではない。悔しさやらがある訳でもない。僕は彼と邂逅を果たせただけで十分だった。
そして、僕は探し求めた先人の存在に気づく。
◯
子供の頃の放課後を思い出していた。
意味を成さない通学団。校庭から家の前まで蹴り続けた小石は僕の生命線だ。横断歩道の白線より他は人喰い鮫が泳ぐ土瀝青の海。拾ったガラス片は宝石だったし、小枝は勇者の剣になる。傘は友人の股座を攻め立てる拷問道具に他ならない。蝋石で描いた落書きは僕らの物語だった。
あまりにも稚拙で粗野な帰宅技術。だと言うのに、これ程までに輝かしいものがあるだろうか!
僕は思い出す。
帰宅部にでき得る最高の帰宅に必要なのは冒険なのだ。
そうして僕は、一つの答えへ辿り着く。
「帰宅とは、自由であるべきなのだ! うらぶれ青少年たちよ、ユナイトしようぜ。部活動があるなら頑張ってくれ」
斯くあるべきだという、脳髄にがちりと固定された観念が僕を取るに足らない久助人間にしていた。財嚢のカードスリープに入れられた、学生証に記された学生規則なんぞに縛られては堪るか。
小生未踏の領域へ立ち入るのだ!
詰まらない回答だけれど、真っ先に思いついたのはアルバイトだった。
ただ登校して、ノートを真っ黒にして、居眠って、弁当食らって、居眠って、下校をする。それが学生の本分なのか? 馬鹿垂れが、それが学生の本分だ。
不肖、学生擬きを自称する頓痴気漢。我が回転羅針盤は常に誤った灯台を目指している。
一足早く社会勉強と洒落込もうじゃあないか、ブラザー。アルバイト。なんという蠱惑的語感。アルバイテンとは尊いものだ。
◯
今を生きる僕は声高に宣いたい。
「勉学で学べるものがなんじゃらほい! 勉学で学べることなど、たかが知れている。虫取り網ぶん回して捕まえた蛍の光やら、雪で反射した月明かりやら、石油ランプやら、LEDやらを利用して刻苦勉励したところで得られるのは、誉高き学歴のみだ! 一体、学歴が何になる? 就職に有利だ。圧倒的だ! 自己という人間性をわざわざ説明せずともある程度の保証になり得る。圧倒的だ! 勉学を元にしない生きる術など、大人になってから勝手に身につく。そして、そいつらの大抵は文明に置いてけぼりにされて、四大文明の崩壊と共に無用の長物になった。だから、皆勉強をするんだ! 僕のようになってはいけない」
◯
僕は、帰宅経路から考えれば、かなりの遠回りになることも厭わずに労働先を決めた。面接なんてのは余裕綽々とこなしてのける。働く様は泰然自若そのもの。僕は飲食店ホールスタッフと帰宅部の二足の草鞋を履き潰していた。
そこで僕は藤牧さん(仮)という女性と出会う。立てば芍薬座ればなんとやらと、彼女は正にソー・キュートだった。そして、X JAPANの大いなるファンだった。彼女は、「ちゃんと働けよ」と言いながら僕の脛をよく蹴ったものだ。きっと、あれは愛情表現の一種だったに違いない。
いずれまた語らう機会があれば、藤牧さんについて残したい。
◯
斯々然々を経た僕は帰宅部エースの座へと返り咲いた。
終礼のチャイムが響けば、僕は矢庭に教室を飛び出す。人っ子一人いない空っぽの下駄箱で、やや白のスタンスミスに履き替える。あの先輩を出し抜いて、僕は駐輪場からママチャリを引き抜く。正門を抜ければ、アルバイト先までの道中をひたに漕ぐ。始業よりもやや早めに到着をして、敢えて食わずにおいた弁当を取り出して、週刊少年誌なんかを読んでおく。そうしていれば、藤牧さんがやって来て、「おはよー」なんて時知らずな挨拶をする。更衣室に消えた彼女の衣擦れに、意識を持ち去られそうになりながら再び週刊少年誌に目を落とす。終業すれば、あまりの食材を一寸くすねて、「お先に失礼しまーす」と後にする。帰宅途中、コンビニエンスストアに寄って立ち読みをしたり、無駄な何かを買ってみる。ふらふらと行けば、公安の補導の対象となる。腕時計を見れば十一時を回っている。「今、何時だと思ってるの?」「うわ、本当ッスネ。気づかなかったです」「駄目だよ、気をつけて。煙草とか吸ってないよね?」「ないです、ないです」「一応、手荷物とか検査だけさせてね」「大丈夫です、どうぞ」「……うん、大丈夫だね。家、帰れる?」「ああ、すいません、もう家すぐそこなンで」と優しき警察官と一悶着もなく、見送られる。
そして、高校生活最初の夏休みからセンター試験の前月までという莫大な時間を校外学習で捨て去ってしまう。
それでもいいのだ。高校生活で得るものなど高が知れていた。取り分け、僕のような衒学者風情のうらぶれ人間くんには過ぎたるものだ。
帰宅という個人競技に必要なものは、スピードや技術などではない。
帰宅という個人競技に必要なものは、冒険心と娯楽を愛する気持ちがあれば十分だ。
毎日のようにする帰宅に味気があればいい。
確かに、高等学校という学び舎には、青春の爽やかな香りが漂っていた。ただ、僕にはそれを嗅ぐ鼻がなかっただけなのだ。
帰宅部はいつだって暗がりにいる。帰宅しない奴らよりは何倍もマシだとは思えないだろうか?
もし仮に、僕の元へ青狸ロボがやって来て強制人間堕落未来装置をよこすのならば、過去へと遡り、誇らしげな顔で青二才の僕へと伝えたい。
「部活はどうでもいいけれど、勉強だけはしておきなさい。後々困ることになりますからね。あと、成人誌はちゃんと買う時が来るから安心しなさい」
数多の日陰青二才にも、そう伝えたい。
あの時、羨望の眼差しで眺めていた泥塗れの丸坊主も、痛がりの演技派も、体育館シューズを頑なに履かない勢力も、今も変わらずに楽しく過ごしているだろうか。
あまりしていないと、一寸嬉しい。