「抗体詩護符賽」迷子について(3−2)-あれのこと〈2〉−アスペクトの閃き、類似性のネットワーク、魔術としての言語

その驚きはたとえばこう表現される。「同じだーそして、にもかかわらず同じではない」ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『ラスト・ライティングス』より

アスペクトの閃き

ベンヤミンの都市論について調べている中でなぜあれほど「類似」という概念が私に迫ってきたのだろうか。それにはわけがある。ベンヤミンについて調べているのと同じ頃、私は異なる通路を通ってまた「類似」という概念に突き当たっていたのだった。

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ここに一枚の絵がある。それはある時は横を向いている老婆に、またある時はこちらに背を向ける娘に見えるものだ。これは有名な絵でゲシュタルト心理学や認知科学の分野で使われているのをよく目にする。この絵に写っているものが、娘から老婆へと姿を変える時、娘の顎は老婆の鼻へと、ネックレスは口へと、耳は目へと変容する。娘と老婆、それらを同時に見ることは出来ない。第三の絵として、無秩序なインクのシミをそこに見ること(いわゆるゲシュタルト崩壊)はできるが、それはやはり第三の絵であって若い女性と老婆を同時に見たということにはならないだろう。この変化は知覚より高次の次元で起こっている。知覚に先立ってと言ったほうがいいだろうか。物理的には、つまり目に入ってくる情報は全く変化していないにも関わらず、若い女性にも老婆にも見えるということである。こうした変化はまたアスペクト転換とも呼ばれる。

巷でヤニーローレル論争が勃発していたある日、私はこの物理的、知覚的(五感が受け取る情報)には、つまり部分には何も変化がないのにも関わらず全体が変化するというアスペクト転換の体験はどこか 「あれ」の体験と似ているなと感じていた。アスペクト転換というのはウィトゲンシュタインが使っていることで知った言葉だ。ウィトゲンシュタインは晩年アスペクトについて色々と考えていたようで、私がその事を知ったのも古田徹也氏の『言葉の魂の哲学』(2018 講談社選書メチエ)という本の中でである。ウィトゲンシュタインのアスペクト論は『哲学探求』やその後、晩年に書かれた草稿の中で展開されている。私は彼がアスペクトについて何を語るのかが気になって『ラスト・ライティングス』(古田徹也訳 講談社)という最近翻訳された本を開いてみた。この書物は編者がウィトゲンシュタインの晩年の草稿群のうち、タイプ稿ではなく手稿それ自体に基づき作成したものの翻訳である。ウィトゲンシュタインはここで、彼がウサギ=アヒル頭と呼ぶ、ウサギにもアヒルにも見える図形を取り上げ独特の箇条書き形式でアスペクトについて書き連ねている。「あれ」がアスペクト転換の一種であるという私の仮説を、確信へと変化させた流れを彼のいくつかの断片と共に追ってみよう。

「あれ」においては、目の前に見えている景色は通常のものと変わらない。物も知覚も変わらない。にもかかわらず「何か」が変化するのだ。

476 しかし、何が変わったのだろうか。私の印象だろうか。私の見解だろうか。ー私にそれが言えるだろうか。私はその変化を知覚の変化のように記述する。すなわち、まるで対象が私の眼前で変わってしまったかのように。p136-137
485 しかし、「私はいまそれを…として見ている」という報告は、知覚を報告していない。p138

知覚を報告していない、にもかかわらず「あれ」は想像や観念的な何かではなく、実際にありありと体験される変化だ。見ている対象の「様相」が全く変わるのだから。様相とはなんだろう。

725 「見ることに響いている思考内容」ー人はそう言いたくなる。p194

うむ、わかりみが深い。そして今、私は「あれ」に関して「見ていることに響いている、ある場所の記憶」と言いたくなっている。見ることに響くはどういうことか。

735 [誰が弱気な顔をしているのを別の人が見ているとしよう。]ーでは、いまその人は弱気さを見ているのか。それとも、みてはいないのか。
視覚的に知覚されたものを、この「弱気」という概念を使って記述することはできる。聞こえたメロディーを「長調(dur)」や「単調(moll)」という概念を使って記述するように。p196

つまり「弱気さ」が視覚的にどこにも存在しないにも関わらず、我々は「弱気な顔をみる」という視覚的体験をする。言い換えると、それは「弱気さ」が今目の前に見えている顔に響いているということであろう。それはこうも言えるのではないか。つまり弱気さは弱気な顔の「意味」だと。逆ではない。弱気な顔が表現するものが弱気さなのだ。そしてアスペクト転換とは「意味」の変容にほかならない。変容とは誤解を招く表現だ。言い換えよう。それから違う意味が現れてくること。それがアスペクト転換である。意味とは何か。それは類似性のネットワークのことである。

おっと、話が進みすぎた。「あれ」の特徴についての話に戻ろう。

「あれ」にもアスペクトの体験にも共通して言えることは、二つを同時に見ることは出来ないということである。「いつもの世界」と「あの世界」二つの世界は互いに排他的であり、ある一方の世界に気を取られている時、もう片方の世界は想像することすらできない。ここでは異なる世界を想像することは即その世界に行くことにほかならないのだ。

733 人は、アスペクトに気づくことを通して、ある種の内的関係を知覚している。そして、にもかかわらず、アスペクトに気づくことは想像することに類縁的である。p195
452 アスペクトは意志に依存している。その点で、アスペクトは想像によく似ている。p130

なぜ各々、もう片方の世界を想像できないか、それは「あれ」が想像上の何かの変化ではなく、「想像すること」それ自体と類縁的な意志行為だからである。

451 アスペクトを見ることは意志行為(Willenshandlung)である。人は誰かにこう促すことができる。それをこのように見てみよ。類似性を見て取ろうともう一度頑張ってみよ、この音楽の主題をこのように聴いてみよ。等々。しかし、このことにより、見ることも意志行為だ、ということになるのか。ここで言う意志行為とはむしろ、そのように見えること(Sehen,見えること)を引き起こすような、見つめること(Anschauung)の一種なのではないか。(後略)p130

想像することも「あれ」も意志行為である。しかし、気づいたら想像してしまっていたり、気づいたら「あの世界」にいるように思う。それは眠りのために床につく行為や、アイデアを出すためにノートを開く行為に似ている。そこでは受動と能動が絡み合っている。ゴドーを待つこと、もとい、能動的受動状態に自分を置くことで神の訪れを待つこと、即ち祈りに似た意志行為である。そしてアスペクトの閃きにおいて訪れるのは神ではなく、類似性である。

433 私が変化しない二つの顔をじっと眺めているとする。突然、両者の類似性が閃く。このような経験を、私はアスペクトの閃きと呼ぶ。p125
730 しかし、一方の類似性が私にとって背景に退き、他方の類似性を意識した、ということであったかもしれない。
731 考察を進める足掛かりとして、一度次のような想定をしてみよ。私が彼の顔を見つめている間、特定の記憶が入れ替わり、あるときにはより鮮明なものに、別のときにはぼんやりしたものに切り替わる。そして、この切り替わりのせいでアスペクト転換が生じている、と。その場合でも私は、自分はいまこれを見ている、いまはこれだ、と言うべきなのだろうか。
732 そうすると類似性に気づくことは見ることの一種であるのか、それとも違うのか。私はそれをどうやって決めたらよいのか。ここには、同じではないが類縁的な概念がある。p195

ここで私は類似性という概念の重要性に気付かされたのであった。類似性はどこか彼方からやってくるように感じられる。何かと何かの間に類似性に気づく時、我々は「見ている」物の背後にうごめくものの切り替わりが起こるような仕方で対象を「見つめている」。

ところで、ウィトゲンシュタインはアスペクトの認識とアスペクト転換をはっきりと分けている。

517 込み入った線のなかにウサギ=アヒル頭が隠れている絵を想像してみよ。あるとき私はその絵のなかのウサギ=アヒル頭に気づくーそれも端的にウサギとして。後になって、あるとき私は同じ絵を見つめ、同じ線に気づくーただ、このときはアヒルとして。そしてその際、どちらの顔も同じ線であることを私がすでに知っているとは全く限らない。では、さらにその後にアスペクトが転換するのをみたとしたら、私はこう言えるだろうか。すなわち、ウサギのアスペクトとアヒルのアスペクトは、私が以前ごちゃごちゃした絵の中に別々に見出したときとは全く違った風に見える、と。ー否。
 しかし、アスペクトの転換は、各々のアスペクトの認識においては呼び起こされなかった驚きを呼び起こす。p144-145

普段我々が何かを見る時、自分があるアスペクトの下で何かを見ているとは思っていないだろう。アスペクト転換がつまり異なるアスペクトの閃きが起こって初めて、今見ていたアスペクトに注意を向けることになる。われわれはスプーンを見て「いま、私はこれをスプーンとして見ている」とは言わない。端的に「これはスプーンです」と答えるだろう。つまり異なるアスペクトの閃きを経験した者でなければ「今これを〜として」見るなんて事は出来ない。

521 人は最初のアスペクト転換のに「いまそれはこれだ」とは言わない。p146

169 アスペクトが転換する際、人は当該のアスペクトをはっきり意識するようになる。p61

つまり普段から我々はあるアスペクトの下で様々な物を認識している。であるからこそアスペクト転換を体験することができるのである。ではそもそもあるアスペクトを認識するとは一体どういうことなのだろうか?逆を考えればいい。ウィトゲンシュタインは「何かを何かとして見ることが出来ない」という能力の不足をアスペクト盲と名付け、それは何を意味するのかを考えている。

784 「アスペクト盲」という概念の重要性はアスペクトを見ることと言葉の意味を体験することの類縁性にある。なぜなら、「言葉の意味を体験しない人には何が欠けているのか」ということを我々は問いたいからである。ーたとえば、ある人が〈いし〉という言葉を、あるときはある意味で、別のときは別の意味で、という風に区別して発することができないならば、ーあるいは、この言葉を十回続けて発するといわば意味をなくし、単なる音の響きになってしまうことが理解できないならば、その人には何が欠けていることになるのだろうか。p209

ウィトゲンシュタインは彼の生涯に渡って言語について考えてきた哲学者である。そんな彼にとってアスペクトの問題を考えることは、言語の「意味」について考えることだった。

さて長々と「あれ」がアスペクト転換の一種だと確信するに至る流れを追ってきたが『ラスト・ライティングス』を読むことで「あれ」がアスペクト転換の一種だと確信し、さらにアスペクト転換というものについての解像度も上がってきた。アスペクト盲の人間が出来ないことは「意味の体験」である。つまりアスペクトの認識とは意味を体験することにほかならない。そしてアスペクト転換とは同じものから異なる意味が立ち現れることだ。では意味とはなんだろうか?『言葉の魂の哲学』の中で著者の古田徹也はウィトゲンシュタインを引いてこう書いている。

「たくさんのよく知られた小道が、この言葉からあらゆる方向へと通じている」(PI1:535,534)、ウィトゲンシュタインは繰り返しそう書きつけている。そして、そうした〈連関それ自体以外には何もない。これが肝心な点である。たとえば先述の、私が「むつごい」という言葉の意味を学ぶ例において、「油っぽい」、「濃い」、「くどい」、「しつこい」、「ごちゃごちゃしている」、「けばけばしい」等の既知の言葉を並べて見渡すとき、これらの言葉すべてに共通する何らかの特徴のようなものを私は感じ取っているわけではない。というより、そうした「共通の特徴」なるものは存在しないと言ったほうがいいだろう。存在するのはただ、これらの言葉と、それぞれの使われ方として私が把握している生活上の実践だけである。そして、にもかかわらず私は、それぞれの言葉同士の類似性を辿っていくことで、そうした多様な言葉が一個のかたち(ゲシュタルト)を結ぶ様子を体験できる。そして、そのように見出された有機的全体ないし多面的立体それ自体として、「むつごい」という言葉の意味を理解できるのである。p122

私はこれを読んで英単語を覚える時の事を思い出した。一つの単語を辞書で一番目に出てくる日本語として覚えてもその単語の意味を知っているとはいえないだろう。その英単語に対応する日本語から伸びている小道とその英単語自身から伸びている小道は全く違った目的地へと続いているからだ。この事は文化的影響が大きく出る単語についてはより大きな影響を及ぼすだろう。つまり英単語と日本語は一対一対応していない。英単語を一つ覚えるとはその英単語のゲシュタルト=アスペクトを獲得することにほかならない。それは類似性のネットワーク全体としてその単語を古田の言葉でいえば有機的全体、多面的立体として単語を覚えるということがその単語を覚えるということになる。

何かを何かとして見ること。それは何かから伸びる類似性のネットワーク全体を見渡すことである。そして何かがいつもと違うものとして見えること。それは異なる類似性のネットワークにアクセスすることにほかならない。「あれ」とはつまりある空間を今までとは違った類似性のネットワークに繋げる行為であり、そのアクセスが成功した時に起こる体験である。そしてそれは空間の違う「意味」が浮かび上がることなのだ。

魔術としての言語

ベンヤミンに戻ろう。ベンヤミンもまた類似を見て取る能力と言語の関係について思考していた人であった。彼もまた、ハシッシュ吸引による知覚の歪みについての断片の中で、類似性とアスペクトについて語っているみたいだ。再び『ベンヤミンの迷宮都市』(近森高明 世界思想社)で引用されている彼の文章を引用しよう。

ハシッシュによって生じる二つの物が同じに見える重層現象を、類似性の概念によってとらえること。ある人の顔が他の顔に似ているという場合には、他の顔のある種の相貌が、はじめの顔のなかにあらわれているということであるが、その場合このはじめの顔は、もとのままであって何ら変わることはない。しかし、このようなかたちで別の顔の相貌があらわれ出る可能性には、いかなる基準もなく、したがってその可能性は無限にある。目覚めた意識にとっては、類似性というカテゴリーはきわめて限定された意味しかもっていないが、ハシッシュの世界にあっては無限の重要性を持つ。というのもハシッシュの世界においてはすべてが顔なのだ。(後略)p57-58

ハシッシュ吸引者、つまり陶酔者の知覚のモードは無限の意味に開かれている。彼にとってはあらゆる物がアスペクト転換しうる状態に開かれているのだ。そしてこの類似を読みとる能力は言語を言語たらしめている力、言語に魔力を与えている力にほかならない。陶酔者は言語の意味が生成する場、つまり魔術の現場を目撃するものでもあるのだ。いや、観察しているだけではない、彼らの魔術が言葉に意味を与えるのだ。

ベンヤミンは「言語の根源的問題とは魔術」だと言う。

中動態にあるもの(das Mediale)、それはすべての精神的な伝達の直接性をなしているのだが、これこそが言語理論の根本問題をなしている。そして、この直接性を魔術的と呼ぼうとするのであれば、言語の根源的問題とはその魔術ということになる。同時に、この言語の魔術という語は別のもの、すなわち言語の無限性をも暗示している。(Ⅱ/142f.)p115

これまた『ベンヤミンの言語哲学』(柿木伸之 平凡社)という本の中で引用されていたベンヤミンの言葉の引用である。この本の中ではウィトゲンシュタインとベンヤミンの言語についての態度が比較されている箇所があり、それによると両者とも「空虚な記号の操作によって言語が世界に応える力を失っている」ことへの危機感から言語の問題を考えていたようである。言語が生きた経験から乖離し空虚なものとなること。それは例えば常套句(クリシェ)に代表されるものであり、意味を知らない外来語の乱用など現代でも蔓延っている病いであろう。

このように、二十世紀初頭にホーフマンスタールやカフカといった文学者たちが察知していたのは、世界を覆う言葉の網目が稠密になればなるほど、言葉が経験から乖離し、世界で現に起きている出来事やそこに存在している物事に応え、それが何であるかを語る言葉が失われていくという、逆説的とも言える言語の危機であった。p95

言葉が手段となり、中動態的に自ずと自らを伝える直接性を無くした時、言語はその魔術の力を失うということになるのだろうか。言語の意味は我々が能動的に生み出しているものでもないし、言葉に備わっているものでもない。それはアスペクトが向こう側にあるのでもこちら側にあるのでもないのと同じことだ。ある類似性のネットワークが一つのアスペクトを生み出すこと、そこに働いている力こそ魔術の力と呼べるものであろう。

そしてセカンドオーダー迷子を実践する遊歩者はハシッシュ吸引者のように陶酔の内にあらゆる物の中に顔を見、他の顔をその事物の内に重ね合わせながら、イメージの連鎖を引き起こし街を徘徊する。確かに私の経験を思い出してみても、夢の中や大麻、その他幻覚剤の影響下にある時、「あれ」は起こりやすいと言える。南の島で大麻を吸いマッサージを受けていた時、私は大きなトカゲにベロで背中を舐め回されている感覚をありありと感じていた。つまり意識の検閲をくぐり抜けた先には、類似を読みとる能力の前景化によって様々なアスペクトが中動態的なあり方で出現する魔術的世界が広がっているのだ。

気がつくと言語の問題へと話が移行していた。この探求は「あれ」の正体を突き止めるためのものであったのだった。しかし、逆に言えば「あれ」の問題と言語の問題は深いところで繋がっているのである。ある言葉が意味を持つということ。他の言葉では言い換えた時には失われてしまうような何かを持つこと。その言葉から伸びる類似性のネットワークは他の言葉に変えてしまった時には失われてしまう。ウィトゲンシュタインの言葉で言うならば「たくさんのよく知られた小道」のあり方がその言語を固有のものにしているのだ。そして同音異義語において、その言葉は変わらないまま、類似性のネットワークが違うものとなる。つまり意味が変わるのだ。確かに同音異義語の体験は「あれ」とよく似ている。しかし「あれ」においては言葉ではなく、空間のアスペクト転換が起こる。つまりその空間から伸びていた小道が一瞬で消え去り、新たな小道がそこから伸びている風景を私は驚きと共に見ることになるのだ。

そうして私は、「あれ」が空間のアスペクト転換、空間の意味が他のものへと変わってしまう体験だと確信するようになった。それは古代の人々や遊歩者、ハシッシュ吸引者や子ども達が持っている魔術的能力によって可能になる。理性と共に失われるその魔術的能力の正体は類似を見出す能力の中にうごめく何らかの力なのだろう。

しかしここにきて一つ疑問が残る。いったい空間のアスペクトとはなんだろうか?アヒルやウサギであれば、名指したり真似したりすることで誰かにアスペクトの体験を伝えることができるが、空間において私には何が言えるだろうか?果たして空間は意味を持つことができるのだろうか?

実は「あれ」が起こり安い所と起こすのが難しい所がある。どこかの教室や家、街路、お店など閉鎖的な空間で「あれ」は起こりやすい、一方複雑で開放的な空間では「あれ」が起こしにくい。この事は何を意味しているのだろうか?「あれ」の起こしやすさはスケールによって決まっているわけではない、360度視界を遮るものが何もない夜の砂漠で寝転がっていた時、そこは小さな場末のプラネタリウムへと変化していた。突然プラネタリウムのアスペクトが閃き、開かれた星空を小さなドームへと変えてしまったのだった。スケールの問題ではないのだとすれば、何が「あれ」の起こしやすさ起こしにくさに関わっているのだろうか?私は様々な空間がシームレスに繋がり合う夢の中のキメラ的空間へと思いを巡らせた。



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