「抗体詩護符賽」トシヤさんは「何も問題ない」と言った
「何も問題ないよ」
トシヤさんは事あるごとにそう発した。
「音楽かけていいですか?」
「何も問題ないよ」
「これ、吸わせてもらってもいいですか?」
「何も問題ないよ」
「トイレ借りてもいいですか?」
「何も問題ないよ」
「なんか、すんません」
「何も問題ないよ」
何を問いかけても「何も問題ないよ」という答えが帰ってくる。その言葉を何度も何度も聞かされる内に「何も問題ない」という言葉が話されているコンテクストから剥がれ落ち私の頭の中に住まい始めた。
「何も問題ないよ」
「何も問題ない」
「何も問題はない」
「何も問題はないのか?」
当時私はナイーブな若者らしく、いくつもの問題を抱えていた。将来への不安や日々起こる人間関係のトラブル。社会に溢れる様々なことへの問題意識。いくつもの問題を抱えていて生活にも心にも余裕がなく混乱した毎日を送っていた。無限の内省行為という鬱に特徴的な症状が私を襲っていた。
殺人や戦争などは常にどこかで起こっているし、悪い人に騙されたり洗脳されたりして生活が壊れる人や、事故で身体機能の一部を失い苦労している人がいる。病気で苦しんでいる人もいるし差別で苦しんでいる人もいる。無知、傲慢、欺瞞は絶えず、喧嘩を始め争いも絶えることはない。人間が引き起こす問題以外にも、地震であったり隕石の衝突であったり自然の脅威が我々にとって問題としてたち現れてくる。そして何よりなぜそんな世界が存在しているのか?という大問題も存在していた。私は長らく世界にはなぜこんなにも問題が溢れているのか不思議に思っていた。つまり問題の存在を問題視していたわけだ。頭の中で老師との問答が始まった。
「何も問題はないのですか?」
「何も問題はない」
「でも、この世の中には問題が溢れているじゃないですか」
「問題など溢れておらん。何も問題はない」
「溢れてますよ。パッと思いつくだけでも戦争や差別、格差、貧困、病気などなど問題だらけじゃないですか」
「それの何が問題なのだ?」
「明らかに問題でしょう?それがどうして問題ではないと言えます?」
「どうして問題だと言える?」
「質問に質問で答えないでください。問題でない理由を聞いているんです」
「問題でないことに理由なんかない」
「あるでしょう。本気で言ってます?」
「それを問題だと思うから、それは問題となるのだ」
「つまり問題を問題だと思うこと自体が問題だということですか?」
「そんなことは言っとらん。『問題を問題だと思う』その行為も問題ない」
「なら『問題を問題だと思う』ということ自体が肯定されて、つまり問題が存在することになってしまうじゃないですか」
「そうはならない。ワシはお前の行為に対して問題がないと言ったまでじゃ。問題の存在を肯定したわけではない」
「それは流石に無理があるでしょう。『問題を問題だと思う』行為を肯定することは問題の存在を肯定することと同じだと思いますよ」
「では、人を殺す行為を肯定することは人を殺すことと同じなのか?」
「同じではないですけど、それとコレとは違うでしょう」
「何が違う?」
「もし、あなたが人を殺す行為を肯定したからといって、それは人を殺したことにはなりません。それはわかります。でも問題の場合は『問題を問題だと思う』行為を肯定することを『問題を問題だと思う』ことと一緒だと思いますよ」
「なぜそうなる?」
「だってそうなるでしょう。じゃあやっぱりこうします。あなたが人を殺していないからといって、人が誰かを殺すことを肯定するならあなたは間接的にその人を殺してることになります。同様に『問題を問題だと思う』行為を肯定することであなたは間接的に問題の存在を肯定したことになります」
「間接的に問題の存在を肯定する?一体どういう意味じゃ」
「そのままの意味ですよ!」
「意味がわからんな。もっと説明してくれ」
「人殺しを肯定するってことはあなたは人殺しと同じなんですよ!ここまではいいですか?」
「同じではないだろう、ワシは人を殺してなどおらん」
「実際には手を下してないかもしれないけど、殺したも同然だって言ってるんです」
「なぜそうなる?」
「だってそうじゃないですか?殺人を肯定していては殺人を止められないじゃないですか」
「だからどうした?」
「だからどうした?って。殺人を止められないってことは殺人をしたということと同じじゃないですか?」
「同じではないだろう。では殺人を止めようとして止められない場合も人を殺したことになるのか?」
「止めようとしたならそうはならないと思いますよ」
「では殺人を止められないことは殺人を意味しないというわけだな?」
「殺人を実際に止められるかどうかは関係ありません。止めようとしたかどうかが『殺人をしたも同然』とそうでないことの分かれ目になるんです」
「なぜそうなる?」
「殺人を止めようとしたら殺人が起こらないかもしれないじゃないですか」
「だから?」
「殺人が起こらなければそれは『殺人をしたも同然』ではないですよね?」
「殺人が起こらなければそもそも殺人を肯定していたとしても『殺人をしたも同然』ではないだろう」
「でも殺人を肯定してたら殺人を止めることができないから殺人は起こるんですよ!殺人が起きたということは『殺したも同然』じゃないですか?」
「さっき、『殺人を実際に止められるかどうかは関係ありません』と言っておったではないか。殺人が起きたことが『殺したも同然』ということの理由になるならば殺人を止めようとしても『殺したも同然』ということになるな」
「ああもう!めんどくさいな!じゃあいいです!そのとおりです!殺人を肯定しようが否定しようが何をしようが殺人が起こるのを止めることができなかったらそれは『殺したも同然』ということになります!これで文句はないでしょう?」
「何をしても『殺したも同然』になるのであればなぜ『殺す』という言葉が存在するのじゃ?」
「は?『殺す』行為が存在するからでしょう?」
「つまり『殺す』以外の行為も存在するわけじゃな?」
「当たり前じゃないですか」
「では何をしても『殺したも同然』にはならんな」
「私が言おうとしていたことは『殺人が起こってしまった』ら何をしてもその行為は『殺したも同然』になるということです。『殺す』行為以前には何をしても『殺したも同然』にはなりませんよもちろん」
「殺人以後は『殺さない』ことも『殺す』行為になるのか?」
「『殺さない』ことだけは例外です。それ以外の行為はすべて『殺す』ことになります」
「では『殺す』行為以外はすべて『殺さない』行為じゃから、『殺す行為を肯定』することは『殺す』ことにはならんな?」
「違います。『殺さない』ことの中にも『殺したも同然』になるものとならないものがあります。『殺人を肯定する』行為は『殺す』行為になりますが、『殺人を否定する』行為は『殺す』行為にはなりません」
「ということはすべての行為が『殺す』行為になるわけではないのだな?何が『殺したも同然』の基準になるのじゃ?」
「殺人を肯定するかどうかですよ」
「なぜそうなる?」
「殺人を肯定していたら殺人を止められないじゃないですか。(あ、さっきもここに来た気がするな。殺人を止められないことは理由にできないんだったな、どうしよう)いや、待ってください、『殺人を否定』していたら『殺人を肯定』する時と比べて、殺人が起こる可能性は低くなりますよね?」
「その行為が殺人が起こる可能性をどれだけ減らせたかが『殺したも同然』かそうでないかの分かれ目になるのか?」
「そういうことです」
「では自分が知らないところで起こっている殺人に対してはすべての人間は『殺したも同然』ということになるのか?殺人を肯定していようがしていまいが、その現場にいないのであればその殺人の可能性を減らせはしないじゃろう」
「現場にいる時の話をしましょう。現場にいる時に『殺人を肯定』していたら殺人が起こる可能性は100パーセントでしょう?『殺人を否定』していたら50%その可能性は減るかもしれない」
「なぜ『殺人を否定』していたら殺人の可能性が減る?」
「その人は殺人を止める行為に出るかもしれないじゃないですか?」
「つまりその行為が殺人を止める可能性をつくるのであって、立場ではないということじゃな?『殺人を否定』していても怖気づいて逃げたらそれは見殺しということになって『殺したも同然』になるのだな?」
「そうですね。怖気づいて逃げたならそれは『殺人を肯定』していたと取られても仕方ありません。でも行為だけでなく立場も重要です。なぜなら『殺人を否定』していなければその行為も起こりようがないからです」
「『殺人を肯定』していながら殺人の可能性が下がることもあるじゃろう」
「例えば?」
「『殺人を肯定』している者が殺人が起きようとしている現場を通りかかって、そのために犯人が殺人をやめることも大いに有り得るじゃないか?顔を見られては捕まる確率が上がるからな。つまりこの場合『殺人を肯定』している者はそこにいるだけで殺人の可能性を下げているといえるわな?それでも『殺したも同然』なのか?」
「じゃあもうこの話はいいです!人を殺す人を否定しないからといってあなたが人を殺したことにはならないのは認めます。でもやっぱり問題の存在を認める行為を肯定することは問題の存在を認めることだと思いますよ。問題の存在を認めないで問題の存在を認める行為を肯定なんてできませんよ」
「いや、何も問題はない」
「なんでそうなるんですか!はっきりした根拠を示してくださいよ。とにかくさっきの例では納得できませんね。私を煙に巻くためにあんな例を出したんでしょう?」
「ではもっとわかりやすい例をだそう。お前が『幽霊を見た』と言う。ワシは幽霊の存在など信じておらんからお前さんが幻覚を見たのだと思うじゃろう。ワシはお前が『幽霊を見た』と思う事それ自体は否定はしないが、幽霊の存在は否定する」
「なぜ『幽霊を見た』ことを否定しないんですか?幽霊の存在を信じてないのに」
「お前が見たというのだから見たのだろう」
「じゃあ幽霊の存在を認めるんですね?」
「そんなことは一言も言っとらん」
「なんでそうなるのかなぁ。『幽霊を見た』という私の発言には私が幽霊を見たこと以外に私が幽霊を幻覚ではなく実際に存在していると思っているという意味が含まれていますよね?」
「そうじゃな」
「それを肯定するということは幽霊は幻覚ではないという主張を受け入れたということになります。いいですか?」
「いやそうはならん。お前が『幽霊は幻覚ではないと思っている』ことを認めることはワシが『幽霊は幻覚ではないと思っている』ことを意味しない。お前とワシは別の存在じゃからな」
「ああもう!じゃあこう言いましょう。『幽霊を見た』という発言の中には『幽霊は存在する!』という主張が入っています。つまり私は『幽霊を見た』と言うことで『幽霊は存在する!』と言っていたことになる」
「お前は『幽霊を見た』とは言ったが『幽霊は存在する!』などとは言っておらんぞ」
「だから!一緒ですって。じゃあいいです!もし私が『幽霊は存在する!』と主張していたらならどう答えますか?」
「『ああ、そうか』と答えるじゃろうな」
「つまりその主張を受け入れるんですね?」
「いや、お前が『幽霊は存在する』と思っているのだろうなと思うだけじゃ」
「またはぐらかしてー。私が『幽霊は存在する!あなたもそう思いますよね?』と問いかけたらなんと答えるのですか?」
「『ワシはそう思わん。幽霊の存在など認めん』というじゃろうなぁ」
「じゃあその時は私の主張を否定するわけですね?」
「ああ」
「つまりあなたは『幽霊は存在する!』と私が思っていることが問題だと感じているということですね?」
「いや、何も問題はない」
「なんでそんな頑固なんですか!さっさと認めたらいいじゃないですか!『ワシはそれを問題だと感じている、だからお前の発言を否定したのだ』と言うだけですよ!簡単じゃないですか?なんでそんな簡単なことができないんですか?頭が悪いんですか?」
「何も問題はないのになぜ『ワシはそれを問題だと感じている』と言わなきゃならん?」
「あなたは私が『幽霊は存在する!』と思っていることを問題だと思っているんですよ。だってあなたは幽霊の存在を信じていないわけでしょう?だったら幽霊の存在を信じている奴は問題以外の何物でもないでしょう?」
「そんなことを思ってはいない、何も問題はない」
「いや思ってますって!流石にそれは無理がありますよ」
「何が無理があるんじゃ?」
「問題がないなら、じゃあなんで『ワシはそう思わん。幽霊の存在など認めん』などと言う必要性があるんです?私が『幽霊は存在する』と思っていることが問題だと思っているからでしょう?だからあなたはそう言う必要があった。違いますか?」
「ワシはそれが必要だから発言をしているわけではない。それに『幽霊は存在する』と思うことが問題だとも思っておらん」
「じゃなんで私のことを否定したんですか?」
「お前が『幽霊は存在する!あなたもそう思いますよね?』と言ったからそう答えたまでじゃ」
「だ・か・ら!そう答なくてはいけないとあなたに思わせた問題があったからあなたはそう答えたわけでしょう!って言ってるんです。否定するってことは肯定することに問題があるってことです。『こいつは幽霊の存在などという存在しないものの存在を信じている。コイツの意見を肯定するとワシも幽霊の存在を信じていることにされてしまう。こいつは大問題だ』とかなんとか考えたからそう答えたんでしょう!」
「『幽霊の存在を信じていることにされてしまう』ことが問題だから答えたのではない。『幽霊は存在する!あなたもそう思いますよね?』という言葉に答えたまでじゃ。ある発言を否定することはそれを肯定することに問題があることなど意味しない」
「はい、でた!またはぐらかしか!クソじじい!『幽霊は存在する!あなたもそう思いますよね?』っていうのは『あなたもそう思いますよね?そう思ってください。そう思わなければいけせん!』という意味に決まってるじゃないですか!質問じゃありませんよ。反語ですよ。断定です。おっさんコミュニケーション苦手でしょ」
「ワシがそれを質問だと捉えているといつ言った?反語であろうと質問であろうとワシはそれに『ワシはそう思わん。幽霊の存在など認めん』と答えたまでじゃ」
「もうめんどくさいなぁ。どうでもいいから『自分でそう思ってない事柄を認めること』を問題だと思っていると認めてくださいよ」
「そう思ってないのに認める必要がどこにある?」
「は?そう思ってるでしょ」
「ワシは『認める必要性がない事柄を認めることを問題だと思っているから』ではなく、『認める必要性がないから』認めないだけじゃ」
「もういいですよそんな詭弁は!じゃわかりました。『認める必要性がない事柄を認めることを問題だと思ってない』ならさっさと認めてくださいよ!それで、何も問題はないでしょう?」
「何も問題はない。だが、認める必要がないから認めん」
「じゃあ認めない必要があるということですか?認める必要がないということは認めない必要があるってことですよね?」
「認めない必要もない。『認める必要がない』は『認める必要がない』であり、『認めない必要がある』ではない」
「私にとってはあなたがそのことを認める必要性があるんですよ!じゃなけりゃなぜ『ワシはそう思わん。幽霊の存在など認めん』なんてことをいう必要があったのか納得できませんからね?あなたには認めない必要性はないんですよね?だから認めてもらってもいいですか?いい加減認めろよクソジジイ」
「お前にその必要性があるからと言って、ワシがそれ認める理由にはならん」
「ほんと頑固だなぁ」
「お前が頑固なのだ」
「はいはい、言っとけよ。明らかに論破されてるのに、気づかないなんて幸せですね。俺もそんなバカな人間になりたかったですよ」
「なればいいではないか」
「あーもうムカつくなこのジジイ!もう話にならんわ。そもそもね、私の『何も問題ないのですか?』という質問に答えたのはなぜなんですか?」
「問いかけに答えるのに理由など必要なのか?」
「また始まった」
「始まったのう」
「あなたの好きな言い方をすれば『問いかけに答える必要はなかった』のでしょう?」
「ああ、そんな必要はなかったな」
「でも答えた。必要性はなかったが、理由があったんですよね?」
「理由などない。ただ問いかけに答えた。人間とはそういうものじゃないかね?」
「急に非論理的になってきましたね!人間とはそういうものだというのが理由になるなら人間とは『問題を問題だと思う』ものなんじゃないですか?」
「そうじゃろうなぁ」
「じゃなぜそれを否定したのです?」
「否定なんかしとらんぞ?」
「否定したじゃないですか!最初に!『何も問題はない』と確かに言いましたよね?それに『問題を問題だと思うから、それは問題となるのだ』とも言いましたね」
「ああ、言ったな」
「それが否定ではないなら何なのですか?」
「ワシは問題の存在を否定したまでじゃ『問題を問題だと思う』ことを否定などしとらん」
「じゃあなぜ『問題を問題だと思うから、それは問題となるのだ』と言ったのですか?この言葉は問題の存在を肯定するものですよね?」
「問題の存在など肯定しておらん。問題というものの性質を説明しただけだ」
「ボケてんすか?問題というもの性質について言えるのは問題が存在しているからじゃないですか」
「ペガサスがどういうものか説明できるのはペガサスが存在している時だけか?」
「また話を変える。そもそもね、問題という言葉の意味をあなたは理解しているじゃないですか!つまりあなたは問題の存在を認めているということですよね?」
「言葉の意味がわかることとその対象の存在を認めることは違うじゃろう。リンゴの意味がわかるからといって、目の前にリンゴがなければ腹は膨れん」
「目の前にないからと言って存在を否定することにはなりません。目の前にリンゴがなくてもどこかにリンゴはあるんですから『リンゴは存在しない』とは言えないでしょう?」
「そうじゃな。でも問題の場合は目の前に存在しなければそれは存在しないということにならんかね?」
「なりませんよ、どこかに問題が存在しているでしょう?」
「どこに存在しとるんじゃ?」
「誰かが問題を抱えていて苦しんでいるかもしれないじゃないですか?」
「だから?」
「だから問題は存在しているじゃないですか!?」
「何も問題ないじゃないか」
「は?また矛盾してますよ、あなたは『問題があっても問題はない』とおっしゃるのですか?」
「『問題がある』なんか言ってないじゃないじゃろう。ワシはただ『問題などない』と言っておるんじゃ」
「じゃ誰かじゃなくて私でいいです。私は問題を抱えています。問題は存在します!それで問題ないですね?」
「問題などないぞ」
「つまり問題は存在するんじゃないですか!」
「問題が存在するなど言っとらん。問題は存在しないと言っておるんじゃ」
「だ・か・ら!頭わるいなぁ。あなたは『問題はない』という言葉で『問題はある』ということを言っているんです。『問題は存在する!』という主張に対して問題はないと言っているわけですから」
「『問題は存在する!』と主張することに何も問題はないんじゃないか?だがそれは『問題は存在する』と言ったことにはならん」
「なりますよー。『問題は存在する!』という主張に賛成しているってことでしょ?」
「賛成などしとらんぞ」
「もういいです。あなたほど話が通じない人初めて合いましたよ」
「それはいい経験じゃのう」
「何がいい経験だ。あなたの存在が大問題ですよ」
「ワシには何も問題はない」
「私にとって問題だと言っているんですよ!あなたにとっては問題じゃないでしょうね。何を当たり前のこと言ってるんですか」
「お前にとってもワシに問題がないということを言っているのじゃ。つまりワシはお前にとっての大問題ではない」
「大問題ですよ!私が大問題だと思えばそれは大問題なんです!」
「なぜそうなる?」
「あなたが言うように『問題を問題だと思うから、それは問題となる』んでしょう?そういうことですよ」
「説明になっとらんぞ」
「あなたが言ったことじゃないですか。だから『問題を問題だと思うから、それは問題となる』だから問題が存在するんですよ」
「『問題を問題だと思うから、それは問題となる』だから問題は存在しないんじゃ」
「もういいですから!絡んでこないでください。あなたと私は違う世界に生きているんです。あなたは『何も問題がない』世界に生きていて、私は『問題だらけ』の世界に生きているんです」
「違う世界に生きていたら、こうして話をすることなどできないじゃないか?」
「もちろん、物理的には同じ世界を生きてますよ。同じ言葉も使っています。でも見ている世界が全然違うんです。だから話が通じないんですよ」
「通じとるよ。何も問題はないぞ」
「あーもう!そのセリフ辞めてもらっていいですか!ムカつくんですけど。バカの一つ覚えみたいに『何も問題はない』『何も問題はない』って」
「だって何も問題はないじゃないか」
「あなたにとってでしょ!」
「誰にとってもだ」
「そんなことはないですよ。私は問題が存在すると思っているんですから」
「『問題が存在すると思う』ことと『問題が存在する』ことは違うことだ」
「じゃあなんで『問題を問題だと思うから、それは問題となる』っていったのですか?『問題が存在すると思う』ことが『問題の存在』を生み出してるってことじゃないですか」
「だから問題は存在せんと言っておるじゃろ」
「それはあなたが『問題が存在しない』と思っているからじゃないですか?つまり『問題が存在しないと思う』ことによって『問題が存在しない』ことを生み出しただけでは?」
「『問題が存在しないと思う』ことで『問題が存在しない』ことを生み出したのではない。最初から問題が存在しないだけだ」
「じゃ端的に『問題が存在する』と言ってもいいですよね?」
「言うのは自由じゃ。だがそれは問題が存在することを示さない。なぜなら問題は存在しないからな。存在しないものは示せない」
「そんなのずるいですよ。じゃあ『問題は存在しない』と言うことも問題が存在しないことを示さないですよね?」
「いや『問題は存在しない』は問題が存在しないことを示している。なぜならそう言う時なにも問題は存在しないのだから」
「『問題が存在する』と言う時も『問題が存在しない』という時も問題は存在していないということですか?」
「そういうことじゃ」
「なぜそうなるのかイマイチわからないですね。ところであなたは一体どういう意味で問題という言葉を使ってるんですか?」
「問題とは理想と現実のギャップのことを言うな」
「なるほど。では『何も問題はない』ということはあなたには理想がないということですね?」
「そういうことになるな」
「でも私には理想があるんですよ。だから問題は存在します。以上」
「そもそも誰にとっても理想なんか存在しないじゃないか?存在するのは現実だけじゃ。それが現実ということの意味じゃからな。だから何も問題はないのじゃ」
「は?理想が存在しないなんか当たり前じゃないですか!それが理想の意味なんですから。存在しないものと存在するものの間にギャップがあるから問題は存在するです!」
「存在しないのにどうしてそこに存在するものとのギャップなど存在する?」
「は?」
「ギャップ、つまり差は存在と存在の間にしか存在しないじゃないか?」
「しますよ!」
「どんな差が存在するのじゃ?」
「そうですね。存在するかしないかの差があるじゃないですか?」
「その時なにが存在している?」
「どういう意味ですか?」
「その時存在していると言えるのは何なのかと聞いておるんじゃ」
「それは現実でしょう」
「それ以外は?」
「存在しませんよ。現実だけが存在しています」
「ではお前は何と現実を比べようとしておるんじゃ?」
「現実じゃないものですよ」
「そんなもの存在しとるのか?」
「してるでs。。。してないでしょ!してないと最初から言ってるじゃないですか」
「じゃあ比べられんわな。比べられないということは差がないということじゃ」
「また話が脱線しているようですが。話を戻すと、問題とは理想と現実のギャップのことで、そもそも理想は現実に存在しない以上そのギャップも存在しない、つまり問題はないということですね?」
「そうじゃ」
「そして『問題が存在する』と言う時も『問題が存在しない』と言う時も問題は存在しないと。つまり問題とそれがない状態は非対称的になっていて、問題があるという認識が一方的に世界に問題を溢れさせていると?」
「そうじゃ」
「そう言われたらわかります。なんで最初からそう言ってくれなかったんですか!こんな簡単なことを説明するのになんで長々と関係ない話をする必要があったんですか。馬鹿らしい」
「最初から言っとるじゃないか『何も問題はない』と」
「その一言でわかるはずないでしょう」
「どうしてそう言った時のワシに、お前が『その一言でわかるはずがない』と思うと気づくことができる?」
「想像できたでしょう?あんたには想像力が足りないんですよ」
「では、お前は『何も問題はないんですか?』と発言した時に、その発言だけでは、ワシがお前が『何も問題はない』と答えるだけでは満足しないと想像できないということは想像できなかったのか?想像力が足りないのではないか?」
「できるわけないじゃないですか!あなたからなんて言葉が返ってくるのか知らなかったのに」
「ワシもお前からなんて返ってくるか知らなかったぞ」
「でもその時に、『ここで言う問題というのは理想と現実のギャップのことで、理想はそもそも存在しないから現実とのギャップ、つまり問題もない』と言ってくれてもよかったじゃないですか。その説明を最初にしてくれていたら、ここまでややこしいことにならなかったんですよ!」
「その説明はお前と話すことで初めて出てきたことじゃないか。それにお前が自分で導き出したことじゃないか。その時点でお前がその説明を必要としているなどワシにわかるわけないじゃろう。それを言うならお前は最初からその説明を求めたらよかったのだ。そんなことできないじゃろう?はじめから説明の内容を知っているならそもそも説明を求めないのだから」
「いやいや、私は最初からずっとその説明を求めていたんですよ!世の中の様々な問題に対して『それがどうして問題ではないと言えます?』と質問しましたよね?」
「ワシも最初からそれを説明していたはずじゃ。『問題を問題だと思うから、それは問題となるのだ』とな」
「だからその説明では説明になってないんですよ!もっと明晰に答えてくれてたらこんなに話は拗れなかったんですよ!」
「じゃあもっと明晰に質問してくれればよかったのではないか?」
「その時点じゃまだ無理でしょ」
「だから無理だと言ってるじゃろうに」
「私が無理だと言ってるんですよ!あなたの手柄にしないでください」
「『そんなことできないじゃろう?はじめから説明の内容を知っているならそもそも説明を求めないのだから』と言ったのはワシじゃろう。最初の時点ではお前にもワシにもどうしたらお前が納得できるかはわかってないのだから、とくにかく手を変え品を変え材料を提供し、試行錯誤を重ねながらその地点へ迫っていくことしかできんじゃろう」
「もういいです!なんかもう疲れてきました。あなたと話していたら生きる意味がわからなくなってきましたよ。あなたは『何も問題はない』という。それはいいでしょう。さっきの話でなぜそう言えるのか理解しました。でもそれなら一体あなたは何のために生きているのですか?」
「生きているのに理由が必要か?」
「でた。じゃあ質問を変えます。あなたのような考え方をしていると身動きが取れなくなってしまいませんか?人生は問題解決の連続です。問題があるから、つまり理想と現実にギャップがあるから何かをしようという気持ちが起きて物事が進んでいくんではないですか?理想がなければ戦争も貧困も差別も格差も何一つ解決しません。あなたはそれに対して何も行動を起こさなくていいと言うんですか?」
「何も問題がないのに、なぜそれに対して行動を起こさなくてはいけない」
「じゃ今すぐ死ねよじじい!」
「何も問題がないのに、なぜ死ななくてはいけない?」
「じゃあ死ななくていいですから、黙っててくれます?何も行動を起こさなくていいんでしょう?だったら私と会話する必要もないですよね?」
「ワシは必要があるから話しているのではない」
「またそれですか。ああ言えばこう言う。本当にめんどくさい人間ですね。じゃあ勝手にしてください。私も勝手にしますから。私は問題がないとはどうしても思えません。いや、例え問題がなくても問題を作り出して生きる方が人間らしい生き方だと思います。あなたのように現状を肯定することしかできない考えでは世の中は変わりませんからね。例え幻想だとしても問題の存在を肯定してそれを解決しようとすることで世界を変化させていく方を選びます。死ぬまで問題を抱えて生きていきますね、それで問題はないでしょう?」
「何も問題はない。だが何も問題がないのに何を抱えて生きていくつもりなのじゃ?」
「何も抱えませんよ!」
こうして老師との問答は終わった。やはりどこかはぐらされている気がする。何かを言っているようで何も言っていないのではないか?そもそも何も問題がないならなぜ「問題」という言葉が存在するのだろうか?それにきっと彼も過去には理想を持っていて、それ故に問題を抱えていたのだろう。でなければ問題という言葉の意味すらわからないだろうから。老年になり理想を捨て、悟りを開いたのだろうか?悟りというのが問題解決を諦めることを意味するのであればそんなものを目指そうとは思わない。いや、でも問題がないなら諦めることにもならないのだろうが。事実問題がなくても老師は精力的に活動している。つまり問題がなくても歴史は駆動するということだろうか。彼は理想は現実には存在しないと言った。理想の存在を認めない彼は現実主義者ということになるのだろうか。そして私は理想主義者だということに。いやそうは思わない。理想は現実には存在しないことは理解した。しかし、そもそも理想は決して現実にならないからこそ価値を持つものなのではないか。福田恆存は「人間・この劇的なるもの」の中でこう言っていた。
「理想主義者に対立するものは、現実家ではなくて、現実主義者である。理想主義者は、理想と現実の一致を信じ、それへの努力に生きがいを感じている。現実主義者は、両者が一致しないことを知って、生活から理想を追放して顧みない裏返しの理想主義者にすぎない。現実家は同時に理想家である。かれは理想と現実との永遠に一致しないことを知っている。彼にとって現実に転化しないからこそ、理想は信じるにたるものであり、理想に昇華しないからこそ、その生きにくい現実は、いつまでも頼りになるものなのである。ハムレットは、そういう二律背反のうちに生きている」
ところでトシヤさんはグレイトフル・デッドキチガイだ。つまり筋金入りのデッドヘッズで何十年もデッドについてまわり仕事は音楽ライターをしていたという。長年アメリカにいて、ちょうど先月日本に帰ってきたところだという。日本に帰ったら富士山が一望できる部屋に住もうと決めていたらしく、アパートの窓からは立派な富士山が見えた。そこは小さなアパートで玄関からその部屋まで続く廊下には黒霧島の空き瓶が並べられていた。話には聞いてたいたがこの光景を見る限り本物のアル中のようだ。
トシヤさんはなぜ「何も問題はない」と繰り返していたのか。もっとも有りそうな仮説は「何も問題はない」というのは英語で言う「No Problem」を日本語に変換していただけで、たんに長年アメリカで暮らしていたトシヤさんの脳みそがまだ英語仕様だっただけ、という仮説だ。つまり「いいよー」と言えば良いのをわざわざ「何も問題ない」と表現していたわけだ。もう一つの仮説はトシヤさんがアル中の姿を借りた仙人で、俺に何か重要なことを伝えるために禅問答を仕掛けていたという仮説だ。トシヤさんの「何も問題ない」という言葉がなければ老師との問答も始まらなかっただろう。
どちらの仮説をとるにせよ、それは『言語の問題』であり、そこに何も問題はないだろう。