儒者のヨメ
頼山陽の母、頼梅颸(らい・ばいし)。
頼春水の妻である頼梅颸。梅颸とは漢詩・和歌を詠む時の雅号で、通常は「お静さん」もしくは「静子」と自他称されていたそうな。春水逝去に先立ち、表装された梅颸の名が揮毫されたものが遺されてある。
梅颸さんは 摂津国立売堀裏町(現大阪市西区)の人。大阪の儒者である飯岡義斎の長女で頼家から遊学の為、大坂に住まう頼春水とは知遇の仲ゆえ、取り持つ方があって嫁することになった。
ワタクシごとで恐縮ですが…。
学校が神戸だったのもありますけど。関西の女性と関東の女性。なにが一番違うのか。発せられる言葉のイメージでしょうか、人柄の印象に影響を及ぼすところ大であると思います。
たとえば、ショッピングセンターのエレベータや、ホテルのエレベーターに乗り合わせたご婦人方の会話。聞くともなく聞かされる感じのお話から窺えることでもありますが。
関東:
「ちょっと、アレ見たぁ?もーどーしようかと思ったわよ。あそこでアレはないわよねぇ?あのヒト、いつでもあぁなのかしら。どう思う?」
関西:
「アレはないわな…あんなんフツーやと思われてるとか、フツーの意味がな。アンタどー思う?ちゃんと考えてんのか?そーか。それやったらええねんけど」
同じ格好をして、同じヒトが乗り合わせて、若干抑え気味の声量で、この言葉を発していたとしたら…。
普段はさほど他人の動向にアレコレ云わないヒトであったとしても。前者のマウント臭ぷんぷんなカンジと後者に漂う明け透け感。苦手と取るか親しみやすいと取るか。
広島は大阪よりは西。
ごくごく普通に後者、親しみやすさで受け止めると思います。関東婦人のシャリシャリ・ハキハキした綺麗な言葉を聞くと…少しく身が縮むカンジでしょうか。
幸いなことに言葉を捨てない関東・関西圏の人間ではないので、お国訛りは住まう場所にコロッと置いといて。
その場その場での言葉になんとなーく併せることで、しのいできたつもりです。関西人ではない関西弁をなによりも嫌う関西の方の前では、前者の東京言葉で話すことにしてました。
話しててヤでしょ?
「うわ、なに。この変なイントネーションの関西弁。このヒトは真面目にこれがコッチの言葉とか思てんのか」とか思われるの。(正確には…。思われてるな、と思いながら話し続けるのがイヤなんですな。)
かかるに、頼春水が大阪まで出向き。遊学の途上にて結婚を…となるまでに、言葉問題というのはあったのかなかったのか。いずれにしても気になるハナシなのですが、そこに触れた著作は未だに見る機会もございません。
オンナノコの関西言葉は、(たとえそれが悪口でも)柔らかく聞こえて好きなんですがね。
さて。
春水と梅颸の二人が結婚したのは1779年11月08日、安永八年のこと。
春水34才・梅颸20才。学才に恵まれた春水は大坂で儒学を紐解く私塾を開いており、(身分はまだ町人ではあるが)後々の発展性を、梅颸の父親である飯岡義斎に見込まれて結ばれることとなる。
ここで問題なのが。芸州人である春水は関西弁で講義を行って…(もぅ、ええっちゅーねん)
周囲の働きかけ、長男山陽が生まれてしばらくしてから広島藩(淺野家)の藩儒任官が定まり、春水一家は武士として故郷竹原よりさらに西の藩都広島に移住。
そこから梅颸のお抱え儒者の妻としての生活が始まるのだが…というハナシは見延典子さんの頼梅颸日記をもとに描かれた『すっぽらぽんのぽん』で取り上げられております。
万葉集も古今和歌集も…普段、関西弁を使うヒト達がつくった和歌を集めたもの。いや、もっと云えば古事記も日本書紀も(今とは違う日本語であったとしても)基本そうだと思うと。
読み解き方にもおのずから気構えというか。「先入観は大事やで」とニヤニヤ笑って教えてくれた先生の言葉をいつも思い出します。
「えぇか?Zenクン。稗田阿礼も太安万侶もナ。みぃんなこっちの言葉(関西弁)を使とったんや。そこから紡がれる歴史をどう捉えるか。東の言葉でモノ考えるのは自由やが、『「風土」は人を作る』。誰の言葉か知ってるか?和辻哲郎や。倫理学ぐらい読んどけ」…的な。(笑)
で。
「吾妻鏡」は関東の鎌倉で作られたんだから関東言葉のイメージで読まなければならないのでしょうか…という問に関しての模範解答。
「書かされたんは、都から呼び寄せられた文官中心やねんから、それもさっきの先入観…生きてんのとちがう?」という、なんとも云えない模範解答でございました。
謎は深まるばかりです。
タイトルと逸脱しておりますが本日ここまで。
オソマツ様でございます。