愛を信じる〜歌について


本来なら
自分の作った歌に解説をつけるなどは
野暮なことだとは思います。
解説などなくても共感出来るものが、
力を持っている歌だと思うからです。


歌にするまでに
自分の感じた感情を伝えるべく、
自分の使える言葉の中から
最小限の表現に凝縮して形にする、
それで完結するのが歌だと思うのです。



と、思ってはいます。
自分が作る時には(とても難しいですが)
出来るだけそのように意識しています。



それでも、
昨日自分で作ったものの中で、まだ
自分でも引っかかっているものについて、
少し深掘りしてみたく、
今日は敢えて無粋を承知で
それについて書いてみたいと思います。


八つ当たり
してきた相手が恥ずかしいと
思えるほどに
優しくなりたい

8/24(土)


これは運転している最中に何の脈絡もなく
ふと感じた感情でした。


“優しい”って何だ?


今まで
このような状況に
数え切れぬほど遭遇してきました。
また、自分が加害者側であったことだって、ないとは言えなくない。
いえ、正直あります。
特に若かりし時には。



けれど、
さすがに半世紀を過ごしてきて
自分の感情、特に“怒り”に限っては
生状態でそのまま出してしまうのを
恥ずかしいと思えるようになりました。



そうなると、
今度は受けるばかりになります。
その視点で人を観察すると、
結局、優しい人の方には変えるべき点(所)はなくて、
変わる余地があるとするなら八つ当たりしている方です。



受ける方は辛いですが、変わらないのだし、変える必要もないのだから、
そのまま変わらないでいいのだと。
何故か、考える方ばかりが傷ついてしまうのですよね。
でも、それはそのままでいいんだよと
今はそう思えているのです。


実際の生活の中で、
嫌味や気持ちが凹ませられる事を言われ続けて、そのまま我慢するしかないのでは絶望です。

でも
優しい気持ちを持っていることで
誰かを傷つけていますか?
むしろ自分が傷ついていますよね?と。
辛いです。辛いです。


でも、もし、その嫌な相手に対して
変われる可能性を持てるなら
信じられるのなら
言い換えるなら
その人に対して“愛を注げるのなら”


《壁打ちされる壁にならなきゃならない》
時もあるのかもしれないと思う訳です。


こちらは壁でも
相手が自分で打って自分に返ってきたボールで気付いてほしいと思う訳です。


詰まるところ
それもまた自分に返ってきて
私はそこまで優しい人(壁)になれるのか?と思った訳です。


打たれるままの壁でいられるのか?
人を本当に愛すなら、愛せるのなら
人が変われる力も信じたい。


もし、
私にとっては嫌な人であったとしても
その人だって嫌味ばかり言っている自分を好きだとは到底思えないし、
もっと言えば自覚していなくとも淋しいはずなのです。


そのような人であってももし、
自分の中にある愛に目覚められたら、
逆方向の力になるはずです。


自分はどこまで優しくなれるのか?
“愛”というものの片鱗を感じながら
作りながらいつも自分に問い続けています。


8/25(日)




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