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【思考の切れ端】教育というDV

Q.教育は暴力装置か?

1.暴力と教育

 昭和時代の正当性と、今の正当性、倫理観みたいなものは間違いなく違いますよね。

 例えば、昭和時代の倫理観では暴力に対する敷居は割と低くて、
 今はコンプラとか言って、高くて。
でも昭和時代でも傷付いていた人は居て、
その傷ついた人の割合も違うのかな。

 一般に流布する倫理観に、洗脳されていたのかな。周りの言葉に染め上げたのかもしれません。

 傷付く人にもきっと色々いて、「暴力が当然だから」と、スッと受け入れられる人や、「暴力が当然だから」って我慢する人もいる。

 教育もある程度人間を矯正するというか、科学的に正当性のある方向に向けさせる為の物ではあるけども、
 従う人、受け手がその科学を信じる事が出来なければそれは洗脳と変わらないような気がして、

 それは、敢えて過剰な表現をするのなら「一種の暴力」じゃないのか?と。

 確かに上の人からしてみれば、「こういう正当性があって」みたいな理屈も証拠もあるけども、
個人にしてはそんな事関係なく、出来上がった自我を踏み潰され、否定される事に拒否感を抱くような気がして、
(だから、その感情が現代になってわかってきたから、現代の教育者はあんなに物腰が低いんだと思うのですが)

 かと言って教育を受けなければ、選択肢は減る。それで確実に不幸になるとは言わないけども、見えている世界や考え方の受け皿みたいなものは減っていく気がして。

 その辺りのトレードオフと選択を、教育者の方々、被教育者の子供、もしくはその親が多分しているんじゃないかなと想像しています。

 さて。教育者や親の教育などにより、
「個人個人に対して、一般的な正当性のある何かを強いる」
 事は、どの程度まで許されるのか、と。
 逆に、完全に自分が悪い事ならば、『どんな場合でも』正当性の名の下に折れなければならないのか、と。

「いや、折れなくても良いよ」と下を否定するのなら、「じゃあ犯罪者の存在を見逃すのか」、と。

 全ての教育が暴力だとは言いませんが、それは暴力となる可能性、性質を含んでいるものだとは思っています。

 その代表例が、子供への躾、と称した暴力。

 暴力親にも多分色々いて、
 本当に子供に必要だと思うから殴る親、
 適当に殴る親、
 暴力という教育方法しか知らずに大人になってしまった親、
 物理的に殴りはしないけど、言葉で貶す親、
 殴るけども怒るときだけで、褒める時は優しい、スキンシップの一環としている親。

 従う者の感情、心なんて、細微まで分かるものではないから、その行為が傷つけるものなのか、それとも必要なものなのかは分かり切らなくて、

 加えて、暴力の由来が「完全にその従わせる者の欲望や怠慢」であれば、上の人や倫理観はそれを否定しやすいけども、その答えは暴力を振るう人の心の中にしかありません。

2.穏和な教育者は被害者か?

 そもそも、教育者にしても過剰に控えすぎなのではないか?
(教育者が子供からの暴力で辞任する、みたいなのも偶に聞きますし)

 という事を考えると、
「じゃあ上の人はどれだけ(乱暴な言葉遣い含め)暴力的であって良いのか?

(従わせる方法は暴力に限った事では無いとしても、それを身につけられるかどうかは能力や余裕に左右されると思われますし、その技術を発揮出来るかどうかも別問題だと思われるので)」

⇨「何を目的にして」教育という、凶器にもなり得る手段を取っているのか、という事。その使命感、目的があれば、それなりに適した行動を取れるはず、若しくはその為に必要な技術や認識を学べるはず、という理想論。

⇨その目的がある程度正当性を帯びた、論理的なものであるならば、多少の暴力性を帯びる事はやむを得ない、という考え方。

 この辺りの考え方には千差万別ありそうです。

また、「従う人にしても従わせる人にしても、どの辺りで自分が暴力を受けたと言って良いのか?」

…というのが、どうももにゃっとしている気がします。
 自分が暴力を受けた、と思ったら、それを暴力と呼ぶのでしょうか。

3.「正当性に従う」人間について

  正当性と正当性がぶつかる場面がある、という話がありましたが、
 学校や親の持つ正当性に、子供が持つ正当性がどれだけ歯向っていいのか、というのを気にする方もいらっしゃるでしょう。

「子供は親に従うしかないのか」という事ですが。

 高校辺りからは自由(と言っても親の正当性と戦わないといけません)ですが、中学までは義務教育です。
 けれども中学生の持つ正当性は根拠も薄くて曖昧で、論理的には親にさえ勝てないから、反抗期でとにかく反抗する。

 大人になってからでも、社長の言う正当性とプロジェクトリーダーの言う正当性が違う事はあるでしょう。
(どちらも目線の違いという事に由来しそうですが。)

 社長が万能でないことも知っている、プロジェクトリーダーの方が詳しいかも知れない。
 だから、プロジェクトリーダーは「自分の持つ知識が社長には無いから」と言って歯向かう。
余裕があれば自分が社長の意見を殺しに行くのではなく、互いの意見を融和させる事を目指す。

 ただ、「自分の持つ正当性が不十分だ」と自覚している場合でも、戦わなければならない時がある。
 もしくは相手の持つ正当性が理解出来ていて、見え透いていて、それでも歯向かいたいという時はある。
(自分と相手が互いに対等である場合にも該当しますが。)

 そういう場合に、相手の正当性を撃ち破らんと歯向かうのは、もしくは緩やかに相手の考え方を変える、ある程度自分の思い通りにすること、それは暴力、もしくはネガティブに否定されるようなことなのでしょうか。

4.終いに

Q.教育とは暴力装置か?

 自分の答えは「教育は少なくとも包丁ではある。それを使って美味しい料理を作るか、人を滅多刺しにするかは使う人次第である」

 そういった次第です。ですが、教育が暴力となり得る可能性に関しては、誰もが覚えていて欲しい事だと思ったのです。

 親、先生、部下の教育。誰もが多かれ少なかれ、ほぼ教育者となり得る現代ですから。

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