草創肇希
不定期マガジン「ストーリィドロップス」 ちょっと何か読みたい時に、小粒な短編小説集。
遠い論理を泳いでいる。遠い魔法を手繰り寄せる。 逃げる議論、現実と幻想の境目に踊り、存在と存在の縫い目の隙間を泳ぐ。命とは何か、死とは何か、発生とは何か。 レゾンデイトルに惹かれたのもそういう理由だろう。錯覚という言葉が、命という概念に深く絡み付いているから。
日記です。
描いた抽象画を載せる場所。
6/5追記:今は蛇になりました。が、この時は確かに人間でしたので、この記事に間違いはありません。 いや、見出しの画像魚やろって?まぁ良いじゃないですか。魚も人間みたいな物ですよ。ほら有機物だし。生きてるし。生きてる皆は宇宙船地球号の仲間です……って、誰が言い始めたんですかね? そういう訳で、どうも。草創肇希です。 いつもなんだかふわふわしたような、抽象的で詩的な、人によってはあんまり好まれなさそうな文章ばかり書いていて、なんだか自分に現実性を欠きそうなので、今回
1.雫の落ちる音、時計の刻む時間。 TVを消す。スマホを切る。時計の音から耳を逸らす。時間を知らせる物を意識から切り離し、思考と時間の速度をスロウにする。 外の喧騒を置いてけぼりにするエゴイズムを他所に、『それ』は私の中で勝手に美しい物として確立される。 身勝手な物だな、と常々思う。何故なら『それ』は現実逃避でもある為である。私の中に勝手に美しい世界を構築する。幸せとはそれ以外の何者でもない。他国の戦争から目を逸らすエゴイズムを完全に排除して成立する幸せなど存在しない。悲
今の自分はあんまりふざける気分でもない。別に機嫌が悪いとかそういう話ではなく、ふざける気力がない、というほうが正しい。 フレンチトーストの記事とか、卯月を追い詰める記事とか、多分その内書く。けどまあそこまで記事を書き切れる感じがしないんで、今回は文字のみ。 1.巷にあふれるおじさん達 Youtubeを見ていると最近キャバクラに通っている人たちが多いことに気づく。 (以下、少しだけ性的なコンテンツへのリンクと画像) 自分の見ている動画投稿者やライバー達が皆こぞってこの
コーヒーをきっかけに、めんどくさい自分になってみようと思う。 自分はコーヒーを飲む時、マグカップで飲む事が多いのだけれど、コーヒーの残量が残り0.5割くらいになった辺りで飲み残す事がそこそこある。 別にコーヒーの味に飽きたわけではないんだけれど、このコーヒーをもうあまり飲む気がしないなあ、なんて思ってしまうような、しょぼめの呪いにかけられたような、そんな気分になる。 理由は全く定かではない。ただ何となく、そんな気持ちになる。 コーヒーなら何でも残す可能性がある……とい
我が家に「角ばった春」がやってまいりました。 レゴで出来た桜です。 https://www.lego.com/ja-jp/product/cherry-blossoms-40725?consent-modal=show&age-gate=grown_up 2000円程度で買えるこの二枝は枝の部分がピンとした直線であることもあってか、可愛らしい色合いと小さな花々の中に、殊の外凛とした佇まいを見せています。 バラバラで小さなパーツから組み上げられた彼女らは背筋をピンと張り
家内の死に立ち会った時、「自分は一体何と逢えなくなったのか?」を永遠に捉え損ねた。 それは「自分は一体、何を家内と見做していたのだろう?」という問いと同義であり、 その問いの忖度無い答えはとても残酷な物であると考えている。 そうでない答えは願いが混じった物だとも。
求めていた「場所」とは、「自分の持つ悪を責められない」場所。
無限コンボは比率1:1の自己相似。 元の位置に戻るのなら。ループ証明は元に戻る事で行われるのなら。
これからは、愛というノンバーバル含めて、分からせる為の侵食ではなく、わかりあう為の侵食。 武器としての侵食ではなく、友達としての侵食。 刺し殺す為の表現ではなく、抱き止める為の表現。
侵食は、自分の恨みと願いの形。 殺してでも相手に心を差し込んで理解させたいという、短絡的な復讐心の現れだよ。 そういう風に理解出来たんだ。 だからお休み。月の元で静かに眠りな。長年の友達。
世界は無意味で無価値だという前提の中で、 偶に創発によって意味や価値が泡のように生まれては枯れていき、 奇跡的に生まれたそれら意味や価値を維持したいが為に、科学によって再現性を持たせたものが、例えば工場だったりする。 そして無意味さから逃れたいのは人の本能。 それらを忘れる。
イベントだって。なるほどね。 まぁ、逃げるようにして?なのか、多分、盲目の時計職人を理解しているのだけれど、そこまで逃げる事を求めなくなったな、という印象。 ある程度向き合う事を決めたからか、そこまで読まなきゃとかキャラクター集めなきゃとか、絵を描かなきゃ小説書かなきゃとか、そういう事を考えなくなった。 絶対的に依存するのでないのならば、美もそこまで求めないし。 結局、現実から逃げてるという事を自覚して、それと戦わなきゃいけないと、まぁ諦めでも「死にたくてもどうせ死な
派手に、沢山間違ったなぁ。
別に無理に価値にする必要も無くなった。 価値が不可解な物でもなく、使用価値を満たさなければ価値にならないと知った。 無理に価値にする必要も無いと思った。単純に憧れだったのだ。 価値は別の方法で産めば良い。趣味である事を許せるようになった。
別に、特に何か書きたかった訳じゃなく、伝えたい事が形になっている訳でもなく、何となく書き連ねている、さて何と呼ぶか、エッセイでも手記でも何でも良いのだけれど、ジャンル分けするほど大層なものでも無いな。 夢をみる。夢。理屈がごちゃごちゃ。前後がくっつかない。それでも覚えている。何か、それが生きる為の手掛かりだと思って。 何かを書きたい訳じゃない。ただ「書きたいことがあるかも知れない」から書いている。それは曲を作りながら何を伝えたいか考えるようなもので、何というか考えた事を発
昔に買ったテーブルライトを引っ張り出してきた。(リンクはイメージです。) 買った動機は「おしゃれさが欲しいから」で、カフェっぽさやホテルっぽさに憧れて、自分の家をそれっぽくしたいと購入したものだった。 その当時はいろんなカフェやホテルに泊まって、「その空間にあるもの」とか「それらが組み合わさってどんな感覚を自分にもたらしているのか?」みたいなのを研究することにお熱だったりしたけれど、 その結論が「部屋を常に、ゴミ一つもなく清潔にすること」であったために、まー、怠惰