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【思考の切れ端】ただ側にいるだけ。
1.不理解の原罪に、取り残されてひとりぼっち。
究極、人は孤独だ。そしてそれを解消する術を持ち合わせていない。もしそんなのがあるとしたら、今更docomoが6Gを使って感情の共有などという事をする筈がないのだ。
コーヒーを飲む。美味しい。世界が輪郭を持つ事、今自分がここに居ることの心地良さを、伝えられないのは、とてももどかしい。
友人から相談を受けた経験は誰にでもあると思う。ネガティヴな気持ちの受け流し方は知ってるので自分自身へのダメージはかなり少ないと思うけれど、それでも相手の気持ちを理解しようとする事すら、自分の精神的な限界に阻まれてしまうのは、どうしても無力感に苛まれる。
その結果、相談相手自身の事は殆ど知れないので、そうかと。
その人の自殺を他人の自分が無理に引き止めても、多分噛み合わないと思うから、生きるにしても死を選ぶにしても良い夢を、としか言えない。
夢とは、何なのだ。自分が何にも干渉出来ないのなら、寧ろ自分の方が夢なのではないか。
2.私は貴方に届くのか。
自分の無力さは今に知った事じゃない。組織として大仰に介入して解決するなら市の相談サービスでもカウンセリングでもなんでも勧めるけれど。 相手の心を理解する事が如何に不可能で、自分が他人に対して如何に虚像を見ているのかは、創作活動の中で沢山知った。
それはどんな人間を相手にした時でもそうだと思った。
だから自分が根本的で本質的な解決方法を提供する事は多分不可能に近い。カウンセラーでさえ長い時間をかけてゆっくり話を聞きながら治療していくのだから、当たり前だと思った。
一応言っとくと、私は自分の心を正確に伝えて、他人の心を正確に捉える術を探して、小説なりなんなりを描いていた。それで心の内を正しく伝えられる術が見つかり、とても手軽に整備されて、アーティストな才覚が無くても伝えられる術を提供出来たらと。
そういう現実は自分がどうするでもなく整いつつある。
表現活動においては、blenderの3D素材が増えたり、簡単に漫画のネームが作れるようになったり、「あの子がこっちをみている」みたいなサイトが出来たりして、徐々に心を伝える為のインフラが整っている。
docomoさんの方でも6Gの通信規格で、脳信号を伝える研究がされているらしく、アートだけじゃ無くてそういう科学的側面からも、心の共有をしようというアプローチは強化されつつある。
けれど、それでもやっぱりクオリアは伝わらない。と、私はそう思っている。
メソッド演技っぽい事をしても、それは自分の中の感情の域を出ない。相手の痛みは理解出来ない。共感出来るだけ。それは恐らくどれだけ技術力が上がったとしても、「感情、クオリア、意識とは何か?」という事が明確にならない限りは共有出来ない。
そしてそれら、クオリアや感情の正体が明確になる日は来ないと思っている。
自分の不可能は不可能で自覚しているし、理解も納得もしているし、きっと相談に乗ったり、雑談が出来ているだけで十分なのだろうとは思いながらも、
何か、やはり何処か究極的には孤独なのだという事と、幸せの選択肢を渡す為の決定打を打てる事は無いのだ、という事実はよくよく自分をしょんぼりさせる。
3.聖域は不可侵だから美しい…?
けれど、その不理解が、人の素晴らしさでも在る、という事を、無限の可能性を人の中に内包する物だと、そういう希望の芽が何となく自分の中に芽生え始めている。
分からないから楽しいのだと、そう思いたくなるのは、逃げなのだろうか。