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君が春

 気付けば日が長くなっていた。分厚いコートを羽織れば、少し汗ばむような陽気が続いている。極暖のヒートテックを卒業して、生ぬるい風を感じれば、身体はすっかり春に順応している気がしてくる。

 花粉にやられてしょぼくれた目を大きく開こうとしたら陽の光が眩しい。街の人が薄着になっている様子を見ると何だか皆浮かれているようで、ソワソワと落ち着かないのだ。これからの不安や期待、色んな感情が入り混じった脳内はピンク色。だから春っていつも苦しい。待ち遠しかった雪解け、なのに心が2月に置いてけぼりのままだ。

 連勤が明け、やっと恋人に会えた。朝はコンビニのメロンパンを買ってくれた。恋人が仕事している間、うつらうつら夢を見た。変な夢だった。この季節が来ると身体が怠く眠たくて、休みの日は死んだように寝てしまう。変な夢ばかりを見て、その内容を思い返しているうちにまた眠っているから、翌日になればほぼ忘れていることが多い。じゃりっとした嫌な感触だけ残ってあとはよく思い出せないまま、また後味の悪い朝が来る。

 「お昼ごはん、何食べる?」の声で目覚める。寝起きの機嫌の悪さと、適当な薄化粧でもかわいいと優しい顔をして言ってくれる恋人。昼間はランチ営業をしている居酒屋へ、ふたりで原付を走らせた。すぐ近くにあるのに知らなかった場所でご飯を食べるのってなんか良いよね、とか話しながらこじんまりとした店内を見渡す。串揚げ定食と塩唐揚げ定食は600円で、ご飯とお味噌汁、小さな惣菜がたくさん付いていた。

 人生で食べた唐揚げで一番美味しいと喜んでいる恋人がとても愛おしかった。ご飯が美味しくて、お店の人も優しくて、また行きたい。たまにはいつもと違うところに行って、いつも選ばないものを選択するのも大いにアリである。春だから、とふわふわした気持ちになって、どんな街のざわめきよりも浮き足立っているのは私自身だ。帰り道、青空に揺れる細長い雲を眺めながら、そう思った。

 ドラッグストアに寄って、切らしていたボディーソープやら洗剤やらを買った。ちょっと迷って良い柔軟剤を選んだら、思いのほか良い気分だった。丁寧に生活しようとか、誠実に生きようとか思うけれど、結構難しくて困っている。でもこんなちょっとしたことで良いのかもな。だって洗濯したタオルからいい匂いがしたら嬉しいし、残ってた玄米に冷凍の餃子焼いて乗せて食べたら美味しいし。これで十分、私は堅実な素直さを胸に生きようと思う。

 大人になって、社会に出て働いて、あれだけつまらない大人になりたくないって思ってたのに、なんかそれらしく成ってるような自分に嫌気がさしたりもする。立派だね、大人だねって言葉を受け止めたくなくて、春になったらまた大人が更新される気がして嫌だった。

 大人になるってどうにもならないことを諦めて悟ることじゃない。分かってはいるけれど、そんなのつまんないって妙に強気な自分がいるのだ。ムキになって、誰にも負けたくないって感情で、初心とか原点とかを忘れてしまっていた。できることが増えて、傲慢になっていた。私、まだまだ全然大人じゃなかったな。

 まだ明るい17時過ぎには、社会に出たばかりの頃を思い出して、胸がきゅうと痛むのだ。大きなトラックに轢かれる想像をしながら通勤した道のり、まだやれるって思いながら明日からまた走る。

 春を生き抜くためのプレイリストを作って毎日聴いている。大丈夫って歌ってくれる君の言葉を、馬鹿みたいに信じてる。きっと大丈夫。確かにこの陽だまりで息をしていた私、君が春。

#エッセイ #随筆 #日記 #日常 #春 #大人


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