恋文

初めて、他人が書いた文章に恋をしました。経験したことのない感覚に、今も戸惑いを隠せない状況が続いています。

人間としてのあなたの見た目に、興味は微塵もありません。性格も正直よく知りません。
認識できているのは、あなたがそうとうに変態的に頭脳が優れていること、そうとうに変態的な学歴・経歴をお持ちということ、そうとうに変態的な多趣味でいらっしゃること。
それらに対し、多少の憧憬の念はございましても、恋に落ちるほどのものでは、ずばりありません。どちらかといえば劣等感の方が強く、敬遠さえしてしまいます。それでも、あなたが入社された際に社員全員にお送りしていた自己紹介メールに綴られた文章は、なぜか私の記憶に残っていました。一見優秀さをひけらかしているかのようなその文章は、よく読むと、これでもかというほどに理路整然としていて、無駄がなく、わかりやすく、あなたという人間の変態さがひたすらにクリアに伝わるものでした。添付されていた写真は実際のあなたの3倍は盛られているとても映りの良いものを選ばれていましたね。あなたにはそういうつもりは全くないかと思いますが、大正解の写真チョイスだったかと思います。

たまに、フロアで見かけたときは、自然と声を掛け合う仲になりましたね。会話するようになったのはあなたが入社してすぐだったかと思いますが、正直、名前を覚えたのは実は先週です。あなたもきっとそうでしょう。それほどに、不思議なことに、名前なんて知らなくても馬の合うといいますか、対話のリズム感の合う人っているのですよね。私たちの間には少なくともそういった波長の合致みたいなものがあったように思います。詳細の機微はいまだにあまり言語化するに至っておりません。

あなたがここからはるか遠い県で製造されているおいしい飴を私にくれたときのことを思い出すと、ただ「あの飴本当においしかったな」と唾液が溢れます。忖度なしに、あんなに上品な甘さの飴は食べたことがありませんでした。大声で「おいしい!」と連呼してしまって、申し訳ございません。そして、あなたの飴なのに周囲の人にばらまいてしまってすみません。
その日、ラーメン屋さんに行かないかと誘ってくれましたね。どこの?と尋ねると残念ながら私の好きなラーメン屋ではなかったので丁重にお断りしましたが、誘っていただけたことで私はあなたにより一層の親近感を覚えたのです。ただ夜19時過ぎから会社よりはるか遠い渋谷の店まで歩いて行こうと誘ってくるのはどうかと思いました。

それから何日後でしょうか、仕事終わりに飲みに行かないかと誘ってくれましたね。私はその日、なんとなくあなたから誘われるような気がしていました。あの日のあの直観が当たったことが、私のあなたへの興味関心を一歩引き上げ、恋心に昇進させた気がしています。
二人で安居酒屋で閉店まで飲みました。ピザのにおいが臭くて、これは賞味期限が切れたチーズが乗っていますね確実に、と二人で笑い合いました。しかし不思議な事に、その臭いチーズのピザは切り取って口元に持って行くと、不思議と臭くなかったのですよね。それで、私たちはそのピザを完食しました。あの現象はなんだったのでしょうね?臭気の遠近法とでもいいましょうか。とにかく、あの後お腹を壊さなくて本当によかった。
歩いて新宿駅に向かう際、雷が少し鳴っていましたね。私はあなたと手をつなぐことを脳裏でイメージしながらも、適度な距離をとって歩きました。友達でも想い人でも、楽しいお酒を飲んだあとの駅までの道のりってなんでこんなに楽しいのでしょうか。
あの夜、あなたが私の左手の薬指にはめられた指輪を見て、「旦那がいるの?」と聞いてきたことをうっすらと覚えています。私は事実として「旦那はいません」と答えました。あなたはそんなに素晴らしい経歴をお持ちなのに、あたかも悔しがるかのように「サラリーマン?やっぱそうか~」とぼやいていましたね。サラリーマンに対してコンプレックスをお持ちなのでしょうか?いや、絶対持っていないでしょうね。

前置きが長くなりましたが、その夜を境に私はあなたについてG先生で色々調べてみました。さすがの経歴からいくつかの情報がヒットいたしました。あなたの留学記、奨学生時代の記事、あなたが執筆した文章。それを読んだ先に、私は、私があなたの文章に恋をしたことに気づかされたのです。
やはり理路整然としていながら文学的で、無駄がないのに感情が確かに存在している。頑なな優秀さの中に隠しきれないユーモアが、私の恋心を細いながらもしっかりとした男性の指で撫でまわしてくるようです。初めて文章に対して性的な魅力を感じてびっくりしています。こんな恋の入り口もあるんですね。

さて、だからといって何がどうなるわけでもないですし、ネットで見られるあなたの文章は一定程度読み終えました。あの後、あなたとはまだ会社でお会いしていません。あなたは今頃避暑地で素敵な夏休みを過ごしているのでしょう。

もう少しだけ、あなたのことを知りたい。
何が好きかはいろんなところで発表されているので、そうですね、例えば何が嫌いでしょうか。どんなハードな経験をしてきたのでしょうか。あなたに痛みはあるのでしょうか、誰かその痛みを共有している人はいますか。できれば、それを文章に落とし込んだ上で、私の頭上から垂れ流してほしいです。

良い歳をして、何をこざかしい恋煩いに浸っているのかしらと自分をたしなめつつ、こんな気持ちになれることはこの先もう何度あるかわかりません。命短し、恋せよ女。私は文章にしたためることで、宛所のない思いを嘔吐し発散することにしたのです。

次、あなたの筆に会えるのはいつでしょうか。わかりません。その時がくるまでに、私はまた今読みうるあなたの文章を読んで、笑い、悶え苦しむことでしょう。
戯れで書いたこの恋文が、いつかあなたのことをもう少し知ることができる日を呼び寄せてくれることを願って。

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